2019年12月19日木曜日

元治さんの塩田


 朝ドラ「スカーレット」のいくつ前になるのだろう。輪島を舞台にした「まれ」の里を町内のシニアクラブで巡ったことがあった。
そのドラマで「まれ」が住むことになった家の主人「元治」さんは塩造りをする人だった。その潮撒き塩田が輪島から10km以上も離れた仁江海岸のちょい向こうにある。
「まれ」が住むことになった元治さんの家
その塩田の主である角花さんの歴史を調べて、大谷小中児童が紙芝居を制作して発表会が開かれたという。

塩田の歴史 始まり始まり 珠洲・大谷小中児童
     写真(上)角花菊太郎さんに関する紙芝居を紹介する児童たち=珠洲市大谷小中で
     写真(下)地元住民を前に紙芝居を発表する児童たち=珠洲市大谷公民館伝承故角花さん


珠洲市大谷小中学校の4年生4人が、塩田にまいた海水を天日で乾かす奥能登伝統の「揚浜式製塩」の技術を守り続けた角花(かくはな)菊太郎さん(同市清水町、1919~2004年)を紹介する紙芝居を製作した。16日に近くの大谷公民館で発表会を開き、地域が誇る偉人の功績や塩田の歴史などを地元住民に伝えた。

地域を知る社会科学習の一環として、先月から歴史書や塩田のパンフレットなどを参考に角花さんについて調査。主に後谷愛心(うしろやあこ)さん(10)と新谷瞳依(めい)さん(9つ)が絵を、川端駿介君(10)と辻花若菜さん(9つ)が文章を担当して完成させた。

発表会では、地元の大谷爽健クラブや大谷婦人会の会員五十人が見守る中、能登の揚浜式製塩が千三百年前から伝わる伝統で、江戸時代には加賀藩の財政を支えていたことなどを説明。昭和時代に外国産の安価な塩が多く輸入されたことなどを理由に能登の製塩業が衰退する中、角花さんがただ一人で塩田を守り続けたと伝えた。

また、角花さんが戦時中に塩作りを任されたために兵役を退いた時の苦悩や、一九六八年に塩田が台風の被害にあった時の思いなどを角花さんの言葉とともに紹介。製塩作業者によって歌い継がれてきた砂取節も披露すると、会員から大きな拍手が送られ「珠洲を愛する気持ちが伝わってきて涙が出た」「よく歴史を勉強していて素晴らしい」などと感想が寄せられた。

発表を終えた辻花さんは「紙芝居を作ったことで、昔から珠洲の未来を考えてくれた人を知ることができて良かった。自分たちの気持ちもうまく伝えられたと思う」と話していた。
元治さんがここで汐を撒いた
当主の角花 豊 さん
汐を撒いて乾燥した砂を集める作業
この塩田のすぐ近くに汐汲み場がある。
少し人工的に手を加えた汐汲み場
この汐汲み場の水深は40cm程度でプールのようになっている。
実はこの汐汲み場は我が家にとって深い縁がある。というのは、娘たちがまだ5歳と2歳くらいの時から帰省した折りに毎年海水浴に何度もここへ来た。そして娘たちはこの汐汲み場で泳ぎを覚えた思い出深い場所なのだ。中学生くらいに成長した頃には、この沖合の岩場に潜ってサザエを採ることを覚えた。入社した同期の友人に、「私、サザエ採るよ」といっても信じて貰えないと嘆いていた。
曽々木海岸のシンボル「窓岩」
角花さんの塩田へ行くときは必ず曽々木海岸を通るのだが、自分が中学生になる頃まではこの公園付近は塩田がいくつもあって、藁葺き小屋も沢山あった。時はそれから既に65年も過ぎた。世の中変わって当然だなぁ。

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