2017年4月28日金曜日

新幹線工事監理業務3年目(その1)

運転免許試験で路上試験が導入されたのが昭和48年度からであった。
私はその7年ほど前に運転免許を得るため自動車教習所に通ったことがあった。仕事の合間で教習を受けなければならないので10時間ほどやったが、忙しくなって免許取得を断念した。

昭和48年になって4月から路上試験が導入されるというので、その前に免許を取得しようと考え隣町の教習所に単車で通った。ここでも毎日ではなく都合のつく日だけ通ったので日数がかかった。
そして広島市の運転免許試験場で受験することにした。元飛行場だったところだけあって、試験場は広大であった。

4車線のコースにダンプやバス、オートバイ等の試験が同時に実施されているので、教習所で練習した者にとっては緊張感と同時に恐怖心を持って受験した。交差点の右折のタイミングが特に難しかった。そのため4回目にようやく合格することができた。
免許は3月末までにと思っていたが、予定がずれ込み4月となって路上試験を受験しなければならなくなったのである。
事務所の車に、後輩の免許所持者に指導者として乗ってもらい、国道1号線を恐る恐る走った。そんなことを経てようやく免許証を取得した。

3月に免許が取れるものと考えて、中古車を注文していたら免許の前に車がきてしまい、事務所の駐車場に鎮座していた。いすゞベレット1500ccであった。
4月中旬、めでたく免許証を手にした。毎日洗車していたら先輩が「そんなに洗うとペンキがはげるぞ」と冷やかされた。

4月のある日、事務所に一人の老人が私を訪ねて来た。大野町に来て借家を探しに歩いたのだが、広いがあまりにも古かったり、新しい貸家は余りにも狭かった。が、事務所に近い場所で新築している家があったので、建て主である老人に借家の申し込みをした。ところが、その老人曰く「この家は養子縁組が決まり甥が東京から帰ってくることになり、この家を新築している。そんなわけで貸すわけにはいかない」と。
非常に残念な思いでその家を借りることを諦めていた、その1年半後、老人が私をわざわざ訪ねて来てくれたのである。

「家を探しておられたが見つかりましたか?」、「いや、中々これという家がないのでまだ単身赴任を続けている」、「それなら私の建てた家に入られませんか」、「だけどあの時、養子縁組でお断りされたが」、「その話はなかったことになってしまった」というやり取りがあって、「それなら喜んでお借りする」と話がまとまった。
6月末、広島県安芸郡温品町の国鉄アパートからトラックに荷物を積み込み安芸郡大野町に引っ越しをしたのである。

大家の老人は90歳近かった。村にまだ勤め人がいなかった頃、国鉄職員をしていたと自慢していた。助産婦をしていたおばあちゃんと二人暮らし。家の前がかなり広い畑でいろんな野菜を作っていた。収穫した野菜が借家の玄関前に積んであることが度々あった。家は6・6・4.5畳に6畳くらいのダイニングキチン、ただ、風呂が五右衛門風呂でマキで沸かすという前時代的なものであった。
そのマキは、老人が宮島の倒木を船で曳いてきて乾燥させて切りそろえたものをドーンと風呂の前に積んでくれた。もちろんお代はいらないという。

この家に昭和50年3月まで住んだ。そんなある日、話があるというので大家に行った。老人曰く、「私たち夫婦に子供がいない。甥の養子縁組も破談になった。そんなことで無理な話かもしれないが、私の養子になってもらう訳にはいかないだろうか」と。
老人夫妻にとっては真剣に話し合って決めたことなのだろう。だが、「能登の長男」として育てられた私には到底考えられない話であったので、丁重にお断りした。
老人夫妻の落胆した顔が忘れられない。

昭和48年10月に次女が誕生した。出生地は隣の大竹市の大竹国立病院であった。夕方、3歳前になる長女の手を引いて病院に向かった。難産の末ようやく生まれた。

大家の老人が「どうぞ食べてください」と段ボール箱を置いて行った。開けてみると殻付きの牡蠣がぎっしり入っていた。天然の牡蠣で、船で宮島付近で採るのだという。
次の日も「事務所の皆さんと召し上がってください」とひと箱。達磨ストーブの上に乗せて焼いて食べた。余ったので皆に分けて家に持ち帰ってもらった。
今から思えば随分贅沢な思いをしたものだと・・・・。



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