2017年4月24日月曜日

昭和の郷愁

昭和から平成に変わっていから、来年で30年の節目を迎える。
だが、45年間を昭和という時代に生きた身にとっては、全身に「昭和」が染みついているのである。

市内電車が至る所に走っていた風景が思い起こされる。香林坊交差点の「でべそ」といっても理解できる人は少なくなったであろう。あの狭い穴倉で市電の分岐器を方向別に切り替えていたのである。むろん夏場でもエアコンはなかった。
金沢駅前の市電
写真左は緑色の電車で、スピードを上げると船に乗っているようによく揺れた。その点、後ろのボギー車は乗り心地が良かった。白銀町から駅前は単線で都ホテルの前に小立野、寺町方面の乗り場があった。市電の運転士をしていた人から聞いた話だが、「運転士はよーもてた。若い女の子が横に来て離れなかったもんだ」と自慢していた。毎日不動寺の自宅から公園下の本社まで毎日自転車で通勤していたと話された。むろん砂利道をである。

6年前に町会の会館が新築されたのだが、18年間も毎月500円づつ積み立てて資金を作って建てられた会館なので、皆でフルに使おうと申し合わせて10種類以上の同好会を立ち上げた。クラフト、カラオケ、料理、生け花、茶道、映画、パソコン等々、現在も活発に活動している。6年前に選出された代表者の皆さんは今も献身的に協力していただいている。町会の絆づくりに大きな役割を果たしているのである。

65インチのディスプレーと優れた音響のスピーカーを備えたカラオケは、発足時に十数名の会員がいた。が、会員が高齢化し亡くなった人、病気で入院した人、けがをした人が続出し現在は5名に減少してしまった。しかし、会員は意気盛んである。癌を克服して復帰した人、眼と耳が不自由な人もカラオケを楽しんでいる。
週2回の定例会では新曲のほか、懐メロがよく歌われる。歌ったり聞いたりする昭和の歌は、流行した時代の出来事が昨日のように蘇ってくる。そして当時の思い出話に花が咲くのである。

パソコンのオペレーターは私だけなので、健康に留意して1日でも長く続けていきたいと願っている。


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