2013年5月8日水曜日

中山道中津川宿(その9)国鉄合理化の先兵

工事区のすぐ近くに中津川機関区の機関庫があった。昭和43年に名古屋・中津川間が複線電化されたが、昭和48年まで中津川・塩尻間が複線電化されるまで、中津川機関区に34両のSLが配備されこのSLが塩尻までの貨物輸送を担った。
SL1両に30人の人員が必要とされた。34両配備された機関区にはおよそ1000人の職員が所属していた。国鉄近代化・合理化は輸送力増強と人員削減が大きな柱であった。動力車労組、国鉄労組は反合理化闘争に全力を傾注していった。
工事局職員は国労傘下にあったが、業務そのものが近代化・合理化の目的のためにあった。
地方本部から工事局分会に闘争指令があるものの、せいぜい本局勤務職員が超勤拒否をする程度で現場職員にあっては全く組合運動に参加するものはなく、むしろ合理化の先兵としてプライドを持って「ヨンサントオ」を合言葉にして業務に注力した。云ってみれば組合は御用組合そのものであった。
事務所前の空き地でキャッチボール。建物は中津川機関区の機関庫
機関区勤務の職員がこの建物の土手の上に立って、やがて暮れゆく空に向かって「夜空のトランペット」を高らかに吹奏していた情景が思い出される。1000人の職員と家族はその後どのような道を歩んだのだろうか。

機関庫前の当時のD51
北陸線では杉津峠の急坂路のため敦賀、今庄に多くのSLが配置されて機関区がおかれ、電化まで大勢の国鉄職員の町として栄えていた。しかし、北陸トンネル開通とともにSLが不要となって国鉄職員とその家族で栄えていた町がすたれていった。

機関庫の線路側
平成9年、33年ぶりに当地に訪れた。この広大な機関区跡地を清算事業団で宅地開発をすることになり現場調査を行った。既に機関庫は解体され雑草が生い茂った荒れ地と化していた。
現在では住宅が立ち並び、昔日の面影すら残っていない。煙と気笛と連結音、排気音が入り混じった喧噪とした風景が妙に恋しい。










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