2016年8月12日金曜日

新幹線工事監理業務(その1):大野トンネル東工区(L=2,387.5m)起工式

昭和46年12月1日、広島新幹線工事局大野工事区に着任した。
大野工事区は広島駅から岩国駅方西方約30kmの位置にあり、大野浦駅から徒歩10分、住宅が点在する閑静な場所にあった。
対岸は約1km隔てて厳島(宮島)が横たわっていた。
事務所はプレハブ2階建て。1階は8畳の和室2室、車庫、倉庫、湯飲み所があり、2階は事務室と区長室が設けられていた。
事務所の建物と5mを隔てて独身寮(2階建て)が設けられていた。既に廿日市トンネルの要員が配置されており、区長、事務助役、技術助役、2名の技術係に私が大野トンネル担当者として加わった。
住まいが見つからず、温品アパートに妻とやがて1歳になる娘を残して単身赴任した。
着任3年後の大野地内建設完了状況
着任して2週間弱の12月13日、大野トンネル東工区(L=2,387.5m)の起工式が執り行われた。
会場設営は請負者(株)大林組が行った。
起工式会場遠望
斉藤徹広島新幹線工事局長の鍬入れの儀

工事関係者80人が列席した
祝賀会は大竹市内の会場へ移動して盛大に行われた。
祝賀会




かくして、起工式を終え、これ以降開業までの3年余に及ぶ工事監理業務の死闘の序章が開始した。

2016年7月31日日曜日

地域住民の防災訓練で200人が参加

本日(7月31日)午前7時、M7.2震度6強の地震が発生し、地域住民に多数の被災者が発生したとの想定のもと、町内の自主防災会の避難訓練が行われた。
吾が町内の避難場所が金市町地内の「やすらぎ公園」に指定されているため、「ひなん済みカード」に所定事項を記入し玄関先に張り付けて避難場所に向かった。
途中に見えるハス畑に白い花が満開だった。
金市町会館横の蓮田の大輪の白い花
やすらぎ公園には既に数名の避難者が待機されていた。
続々と避難者が集まってきた
今回は町会長が校下自主防災会の役員に就任したため不在なので、段取りに不備が多少見受けられた。
7時45分、ようやく安否確認を終えた班長が揃った。
訓練といえども、いざというときに備える班長の業務は一軒々々の家を回って調書に所定事項を記入するという基本動作は最も重要である。これにより避難状況を把握して、救助の依頼、食事の配布作業のデータベースとなる。
総務担当副会長が町会長代理として一切を取り仕切った
200名余が班ごとに整列
ハンドマイクが用意されていなかったので行動所作にメリハリがいまいち。
8時過ぎに解散したが、町会役員、各班長のほか、防災訓練カード配布者数名が千坂校下防災訓練会場である千坂小学校へと向かった。

昨年までは本部詰めであったたため、久しぶりに「まちなか訓練」に参加した記録でした。


2016年7月5日火曜日

新幹線建設反対運動

昭和46年、広島県内はほぼ全域で新幹線建設の槌音が響き渡っていた。が、ただ1地域のみ建設反対を叫び、調査のためであっても立ち入り禁止の強硬策を貫いていた。
当時、広島県佐伯郡大野町(現廿日市市大野町)は社会党の町長のもと、全町民一丸となって反対運動を繰り広げていた。
大野町地内
新幹線ルートは帯状に広がる平地を縦断するルートであったため、農地保護、振動騒音公害を危惧し、山間部トンネルとするよう要求した。
反対運動の旗頭は国鉄労組の組合員だった。
だが、廿日市トンネルと大野トンネル西工区(出口)は既に着工しており変更要望を認めることはできなかった。
従って私の業務は、この地域に影響のない大野トンネル西工区と大竹トンネル東工区、その間の恵川橋りょうの計画設計積算に没頭した。

11月に入って大野町と折衝した結果、ようやく和解の方向に向かった。
 11月の半ば、課長から事前通知書が渡された。協議がまとまったので大野トンネルの着工が来月中旬に決まった。で、君に大野トンネルをやってもらいたい。12月1日付で発令すると告げられた。
昭和44年10月着任以降、2年余り本局業務に邁進したが、ひょっとしたら現場業務に従事することなく終わってしまうのではないかと少々あせりの気持ちがあった。
それで、課長の頭越しに総括次長に現場に出してくれと依頼していたのである。
12月1日、大野工事区に赴任した。



2016年6月19日日曜日

新幹線計画業務(その10)橋りょう設計に挑戦

毎年、年末年始は能登の実家に帰っていたが、昭和46年の正月は広島で迎えた。
妻が出産予定のため入院中であった。そのため年末年始は病院へ通った。2日朝、ようやく陣痛が始まり午前11時過ぎ無事長女を出産した。当時は生まれるまで男か女なのか知ることができなかった。
産声を聞いて30分ほど経過した頃、看護婦が抱っこして見せに来てくれた。エエッ、生まれたばかりなのに大きな目をぱっちり開けているではないか!親子の初対面、われ感激す!であった。
母親に電話でそのことを話ししたら「生まれたばかりの赤ん坊が大きな目をぱっちり開ける訳がない。親ばかやなぁ・・・」と信じてくれなかった。この年、私は28歳であった。

さて、4日となり御用始め。課の臨時職員の女性に子供が生まれたことを話したら、庁舎に隣接する鉄道病院へお祝いのプレゼントを持って見舞いに行ってくれた。ベビー用品だったと記憶している。

さて、次々に指示される仕事が山積。大野トンネル西工区の設計・積算を一人でやれ!と。係長は北陸線能生工事区で頚城トンネルを担当の助役だった人であった。
大野トンネル東工区(入り口方)は、地元が新幹線建設反対を唱え、ルート変更を強硬に主張していたため、東工区と高架橋3km区間の着工の目途が立っていなかった。
当時、岡山・博多間開業は昭和49年10月と設定されていた。残りの工期は丸3年。全職員に叱咤激励の鞭が飛んだ。
次に指示されたのが大竹トンネル東工区(入口方)の設計積算。ここは県道から入口までの400m間の工事用通路の設置が必要であった。
幅員4m、最急こう配14%、道路橋2か所の設計が求められた。
大野T西工区~恵川B~大竹東工区位置
業務量の圧力に耐えながら工事用通路の設計・積算を終え、大竹東工区の設計積算をこなし、恵川橋りょうの設計に取り組むことになった。
新幹線が河川と交差する角度が斜めのため、橋脚は円柱設計とした。
恵川B~大竹東工区工事用通路
ストリートビューで現況を確かめた。嬉しいことに、仮設道路が永久施設として今も機能しているではないか。
そうこうしているうちに昭和46年も12月になろうとしていた。




2016年6月18日土曜日

町内シニアクラブの研修旅行

世は正に高齢社会に突入したというのに、老人クラブの会員数が減少の一途にあるという。
荒屋団地老人会は数年前からこの現状打開対策に乗り出した。

先ず、現状分析から始めたが、主な原因は次の4点。
①行事がマンネリ化している ②役員が高齢化している ③入会する魅力がない ④入会するのは私はまだそんな年ではない
確かに惰性で毎年行事が繰り返されている、役員のなり手がいないので世代交代が困難、入会したくなる程の魅力がない、老人会に入ると老人扱いされる、老人会の役員をやらされる
以上のような考えが大勢を占めた。

そこで、4年前になるが名称が旧態依然の組織イメージを引きずっているとの考えから、手始めに名称変更をすることになった。
ところが、総会で名称変更を提案したが、「こんないい名称を変える理由は一つもない」と反論があって見事に否決された。
反論者は前会長で十数年間会長を務めた人であった。

翌年、再度総会で名称変更の必要性を説き承認に至った。
当時の会長は80歳も後半ながら熱心に活動と取り組んでいたが、70歳前後の人にとりあえず老人会に入ってとお願いし、しばらくして会長職引き受けを強く依願した結果、首を縦に振っていただくことができた。前会長は副会長を引き受けられ協力していただくことになった。

次に、臨時の役員会を開き、どうすれば魅力のある組織にできるか意見交換をした。
まず、未加入者を対象に老人会加入促進キャンペーンをすることにした。高齢化社会は相互に助け合うことが必要となる、家にこもらず社会交流をしましょうと訴えた。
その結果、20数名から加入申し込みがあった。その中から、役員のなり手候補者をリストアップして協力を乞うた。60歳半ばの現役のホテル支配人が副会長、70歳そこそこの女性が会計を引き受けていただいた。
連絡業務を担当する理事クラスも若返った。

名称変更した初年度は、年2回のバス研修旅行を実施することにして、手始めに白山スーパー林道の紅葉鑑賞ツアーを企画。それ以降、のと水族館・能登演劇堂、永平寺等の研修旅行を実施した。金沢市からの補助金は参加者が25名以上が要件。どれもその要件をクリアーした。

今年度は「まれの里めぐり」と富山新湊方面(詳細未定)として、6月16日「まれの里」バスツアーを実施した。

朝市バス駐車場に到着

朝市会場へ

キリコ会館へ

旅行実施証明用の集合写真

キリコ会館に隣接するレストランで昼食会

千枚田道の駅で

すず塩田村で研修

塩汲み実演

大沢地区「間垣」見学
以上、荒屋団地シニアクラブ「まれの里めぐり」バスツアーの模様でした。なお、詳報は荒屋団地町会ブログをご覧ください。

2016年6月7日火曜日

柳橋町会が盆踊り大会中止の決定!

本日(6月7日)北國新聞朝刊に柳橋町会が盆踊り大会を中止することが報じられた。
旧盆では全国各地で繰り広げられていた盆踊りの文化が衰退しているが、とうとう柳橋町会も中止するという。
千坂校下において、盆踊り大会を開催している町会は福久南、法光寺、百坂、荒屋団地と柳橋の5町会で開催してきた。が、柳橋においては「担い手」がいないため中止を決断したという。
盆踊り大会の開催は町会にとって大きな負担であることは違いない。
町会役員の寄付集め、班長の会場設営、踊りの練習会、青壮年部、子供会、老人会等を総動員しなければならないが、その負担も大きい。何よりも肝心なのは「踊り手」の確保である。
近年、婦人会が解散した町会も増え、協力を仰ぐ相手がいなくなってしまったのが痛手である。
公民館の校下盆踊り大会でも参加者が減少傾向にあり、3年前に町連から「何とかしろ」と指示があったが、公民館の努力だけでは無理であった。
何せ若い世代の女性からそっぽを向かれた盆踊り大会は、最早衰退を辿る道しか残されていないと思われる。
とはいえ、残る4町会の盆踊り大会は末永く継続してほしいものだ。
昨年の盆踊り大会

もうこの賑わいがなくなるとは!



2016年6月5日日曜日

千坂の新たな産業にチャレンジ中!

去る6月1日、北國新聞朝刊にドジョウ養殖にチャレンジしている千坂校下百坂町会長(出島敏則氏)と、元法光寺町会長(松田多賀志氏)の二人の奮闘模様が掲載された。
掲載された新聞記事
昨年の夏、ドジョウ養殖の話を聞いて現場に訪れた。北陸本線沿いの蓮田1枚を半分利用して養殖中であった。養殖池には鳥類から守るためネットを張り巡らしてあり、朝晩2回の餌やりは二人で分担して行っているが、水の管理、ザリガニの退治が大変な作業であることを話された。
作業小屋には日誌が備えられ、水温、餌の量が細かく記録されている。
先月に竹林ビアガーデンでそのドジョウの唐揚げを食べさせていただいた。
今までの実績から、「ドジョウの養殖は事業として十分採算が合う」と話された。
昨年は町連50周年記念誌の編集と取り組んでいたが、この二人とも編集委員として活躍された。
私は編集委員長の立場で、この養殖について原稿作成を依頼した。
「いずれは千坂の新産業になればいい」と話されていたが、その原稿の一部を紹介します。
記念誌から一部抜粋
十分に成長したドジョウの「蒲焼」のご相伴を期待したい。