2016年6月19日日曜日

新幹線計画業務(その10)橋りょう設計に挑戦

毎年、年末年始は能登の実家に帰っていたが、昭和46年の正月は広島で迎えた。
妻が出産予定のため入院中であった。そのため年末年始は病院へ通った。2日朝、ようやく陣痛が始まり午前11時過ぎ無事長女を出産した。当時は生まれるまで男か女なのか知ることができなかった。
産声を聞いて30分ほど経過した頃、看護婦が抱っこして見せに来てくれた。エエッ、生まれたばかりなのに大きな目をぱっちり開けているではないか!親子の初対面、われ感激す!であった。
母親に電話でそのことを話ししたら「生まれたばかりの赤ん坊が大きな目をぱっちり開ける訳がない。親ばかやなぁ・・・」と信じてくれなかった。この年、私は28歳であった。

さて、4日となり御用始め。課の臨時職員の女性に子供が生まれたことを話したら、庁舎に隣接する鉄道病院へお祝いのプレゼントを持って見舞いに行ってくれた。ベビー用品だったと記憶している。

さて、次々に指示される仕事が山積。大野トンネル西工区の設計・積算を一人でやれ!と。係長は北陸線能生工事区で頚城トンネルを担当の助役だった人であった。
大野トンネル東工区(入り口方)は、地元が新幹線建設反対を唱え、ルート変更を強硬に主張していたため、東工区と高架橋3km区間の着工の目途が立っていなかった。
当時、岡山・博多間開業は昭和49年10月と設定されていた。残りの工期は丸3年。全職員に叱咤激励の鞭が飛んだ。
次に指示されたのが大竹トンネル東工区(入口方)の設計積算。ここは県道から入口までの400m間の工事用通路の設置が必要であった。
幅員4m、最急こう配14%、道路橋2か所の設計が求められた。
大野T西工区~恵川B~大竹東工区位置
業務量の圧力に耐えながら工事用通路の設計・積算を終え、大竹東工区の設計積算をこなし、恵川橋りょうの設計に取り組むことになった。
新幹線が河川と交差する角度が斜めのため、橋脚は円柱設計とした。
恵川B~大竹東工区工事用通路
ストリートビューで現況を確かめた。嬉しいことに、仮設道路が永久施設として今も機能しているではないか。
そうこうしているうちに昭和46年も12月になろうとしていた。




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