当時、満20歳、昭和38年10月に能登線建設の宇出津・松波間の開業に伴い、岐阜市にあった本部へ転勤になり、担当部署が中央本線名古屋・多治見間の複線化計画の担当係に着任した。担当係では定光寺駅付近の愛岐トンネルの工事管理がメイン業務だったが、高蔵寺・定光寺間の複線化工事の設計積算も担当していた。
着任して間もなく、愛岐トンネル入り口付近が地滑りのため変状が発生した。原因は急傾斜地で地表からあまり離れていない位置にトンネルを掘削したためであった。土砂崩壊で線路がいつ埋没するかわからない不安を解消するため、山の頂上付近にある亀裂箇所に4条のピアノを張って、変状を克明に記録することになった。なおかつ偏移が2cmを超えたら信号に赤を現示する回路が設けられた。
この記録装置にインク補充が必用だった。その維持管理の担当に命じられ、定光寺工事区
の寮を根城に長期出張をすることになった。その定光寺駅を火野正平が訪ねたのである。
で、二十歳の出来事が走馬灯のように走った。
玉野川(庄内川)河原から定光寺駅を眺めた |
定光寺工事区での昼休み 後列の真ん中に昔の自分が |
橋の下付近で正平が手紙を読んだ
|
到着 |
こころに残る風景の手紙を読む |
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