昨日のWCサッカー日本・チュニジア戦は終始日本チームの圧倒的パワーが光って、終始かつてない安心感を持って観戦した。
そして何んとチュニジアに4―0で勝ったではないか!今大会初勝利で勝ち点4。1試合4得点は日本のW杯史上最多記録となった凄い記録なのだ。
My memoirs「あんなことこんなこと」
2026年6月22日月曜日
日本が4:0で勝利!
2026年6月21日日曜日
4車線全通が待ち遠しい
能登と金沢を結ぶ「のと里山海道」最後の4車線化へ起工 という記事に注目した。
「のと里山海道」の4車線化工事で、最後の未着工となっていた上棚矢駄ICと徳田大津JCTの区間が6日起工し、工事が始まったという。
3年前まで能登町柳田の石井橋近くに実家があったので、広島、岐阜、金沢から数えきれないほど実家へ行き来した。両親が元気だった頃、転勤で広島勤務の時にも何度も往復した。穴水から金沢まで、有料期間が長かったのでかなり高額だと思った料金を支払って往復したものだが、いつしか無料になり随分助かった。
先日、志賀町で開かれた起工式には、石川県の山野之義知事ら、およそ100人が出席し、工事の安全を祈願したという。
| 最期の起工式 |
2026年6月20日土曜日
こんな時代があった住民全員参加の町会総会
自分が住んでいる町では年々世帯数が増え、今では約300世帯の町内となった。この町内で平成18年から6年間、町内会長を務めた。その頃は、年に1度の町会総会は全世帯230世帯が隣町の企業の会議場に集い総会を開催していた。
| 3F会議室 |
その頃は出席者全世帯に弁当を支給していた。
この町会が発足したのは昭和37年。宅地分譲開始から数か月後に発足した。この時は20世帯前後。それが毎年増え続けて現在では300世帯近くまで膨れ上がった。町会の総会は発足初年度の昭和37年に第1回が開催された。町内の区域が宅地開発に伴いどんどん広がっていた。町内は8号線から南側に位置しているのだが、町会区域は8号線から100m以南となっているが、このエリアから町会に加入したいという要望が盛んにあった。そういう要望があったが、すぐどうぞ・・・というわけにはいかない。が、要望が強かったことから承認することになった。
最近ではこの全住民出席の総会方式を改め、前班長・後任班長と町会役員で総会を町会会館で執り行うことに改められた。そんなことで、全世帯参加の総会を懐かしく思い出した。
2026年6月19日金曜日
海岸でカワウ100羽以上が大量死
「鳥が100羽くらい死んでいるようだ」という見出しが目に入った。なんで鳥100羽も・・・と気になって記事を読んだ。
網走市の海岸で野鳥が大量死したという。 市などがカワウ約130羽を回収したが、北海道は鳥インフル感染可能性もあるとみて調査中だという。
網走市の海岸で「カワウ」とみられる野鳥が大量に死んでいるのが見つかり、北海道が回収して調べている 。市は15日、北海道の担当者とともに現場を確認し、「カワウ」とみられる野鳥の死骸およそ130羽を回収した。
2026年6月18日木曜日
能登の7人の中学生がアメリカで日本・オランダ戦を観戦
能登地震の被災者で中学生7人がアメリカで開催しているW杯日本・オランダ戦を観戦したという。
これに関する記事が掲載された。 「心配3割、楽しさ7割です。まず被災地の状況、そしてたくさん(アメリカから)義援金をもらったことについてありがとうと伝えたいです。」それぞれの境遇を持つ7人が奥能登からアメリカへと飛び立った。
アメリカのダラスで行われた日本対オランダ戦。奥能登の中学生たちは会場で日本代表の活躍を応援した。試合は後半オランダが先制。直後に日本代表がゴールを奪い返すが、再びゴールを奪われ追いかける展開が続いた。劣勢に立たされても最後まで諦めない日本代表を、悠月さんは全力で応援した。試合は終了間際、鎌田のゴールで同点に。強敵オランダ相手に貴重な勝ち点1を獲得した。
悠月さんは能登への支援に対して精いっぱいの感謝を伝え、最後に練習を重ねたギターを披露した。
能登半島地震からもうすぐ2年半。あの大災害を忘れてほしくない。悠月さんの思いは、ふるさとから遠く離れたアメリカにも確かに届いた。
2026年6月17日水曜日
二度と同じ場所で写せない写真
2026年6月16日火曜日
60年前の仕事
懐かしい写真が出てきた。幼い頃、絵本で見たあこがれの汽車ポッポの写真である。そういえば初めて汽車に乗ったのは小学校の修学旅行で輪島駅から金沢に向かう列車だった。本当は昭和20年(2歳)舞鶴から金沢経由で親父の出身地の柳田へ行ったのが最初なのだが、3歳前だったので記憶はない。
輪島から金沢まで乗車したのは、小学校の修学旅行だった。普段はバスだけの世界だったので汽車に乗るのが楽しみで、乗ってから揺れがほとんどないのに驚いた。おふくろの里帰りで柳田から宇出津まではバスだったので、でこぼこ道を揺れながら走るのが当たり前だったので、汽車の乗り心地は夢のように思った。
後で知ったことだが、七尾線の列車はだいたいC11が牽引していた。北陸線はⅭ58かÐ51だった。蒸気機関車は生き物のようだった。機関助士は常に石炭を窯に放り込んでいた。機関車乗務の職員は長大トンネルで辛い思いをした。
若い頃、軌道工事を担当していたのだが、その時にバラストを積んだ貨車から工事現場にとり降ろす作業で機関車に乗り込んで、機関士に取り卸し場所を指示しなければならなかった。中央西線の複線化工事だったが、25/1000の急こう配の途中に停車したら発進不能となって、バックしてスピードを上げて坂を上ったことがあった。現在、バラスト散布はどのような方法で施工しているのか知る由もない。60年も前のことになったもんなぁ。