2017年10月25日水曜日

元の古巣に戻った

去る7月16日のブログで新幹線工事管理業務3年目(最終章)を記したが、岐阜から広島へ昭和44年9月に赴任し悪戦苦闘の5年半を過ごし、昭和50年3月、出身母体の岐阜工事局に帰還した。
岐阜工事局では、大勢の帰還者のために線増第三課という課を新設して配属した。
また、宿舎も大量に不足するため、木造宿舎群を取り壊し鉄筋コンクリート造の五階建てアパートを10棟も新築したのである。

広島着任の際は、広島駅から1.0kmに位置する新築した借り上げアパートに入居、その後国鉄アパートが新築されて転居、現場赴任では宮島に近い場所の新築の借り上げ民家、そして岐阜の新築アパートに入ることになった。4回も続けて新築の住居に入居することになった。その後、昭和56年に金沢に新築移転した。そこに15年住んだのだが、親が倒れ両親と同居する必要が生じたため現在地に新築し転居した。数えてみれば6回も続けて新築の家に住んだことになる。世間広しといえども、こんな記録はなかなか見当たらないだろう。

広島から岐阜に赴任する際は、家族4人が広島宇品港からフェリーに乗船した。操舵室の右側の1等船室は見晴らし良し、設備よしの和室であった。大阪南港には早朝到着した。
大阪は都市高速に乗り名神を走る予定で、心斎橋付近から高速に乗るつもりで広い道路からアプローチに入ろうとしたのだが、その入り方が紛らわしくて、2,3回進入を試みてようやく入ることができた。田舎者なんだろうなぁ。

名神大垣ICで降りた。国道もバイパスができ、どこを走っているのか見当がつかなかったが、岐阜城稲葉山の位置を見極めようやく市道に乗った。バイパスは市街地を大きく離れた随分東側に造られたのだなぁと感じた。岐阜市は6年で大幅に変わったと実感した。そして出来立てほやほやのアパートに到着した。家財道具を積んだコンテナも到着し、課の若い衆が助っ人で4階まで運び上げてくれた。
ピアノの重量物はプロ二人が担ぎ上げた。たいしたものだと感心したものである。

配属先は線増第3課第6係。係長も広島勤務経験者のベテランだった。業務は新幹線岐阜羽島駅雪害対策工事で、駅構内に軌道とホームを増設し、新幹線車両に付着した雪の塊を落とす作業員スペースをホーム下に設ける一連の工事であった。
国鉄の建設技術屋は建築・土木・電気・機械の各部門に配属されていた。
土木でも駅設備やヤード関係を担当する職員がいた。この職員を「停車場系」と呼んだ。
橋梁・トンネル・高架橋関係は停車場系以外の職員が担当し、滅多に停車場系に移動することはなかった。だが、私の担当することになった業務は停車場系であった。

なぜそうなったか。それは、広島から転勤する際に次は北陸新幹線をやりたいと申し入れ
たのだが、新幹線は凍結、北陸関係では金沢駅高架化プロジェクトが2,3年後に着工が見込まれていたので、いずれ線増第3課が担当することが内定していたことで停車場系の係に配属されたのであった。(続く)


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