2017年10月15日日曜日

親父が乗艦した駆逐艦の写真を見つけた!

囲炉裏端で親父が語った武勇談で、ひときわ印象に残っている話がある。
それは、虫垂炎の話であった。で、入院して手術を受ける時には手遅れで、癒着が進み治療に長期間要することになった。
時は昭和19年4月、駆逐艦「刈萱」に乗艦していたその艦が、台湾高尾港に寄港した。
寄港前から腹痛があり、寄港した直後に高尾海軍病院に担ぎ込まれた。直ちに手術が行われたが、癒着が進行し長期間の入院が必要になった。

駆逐艦は予定どおり出港した。結局、親父は当然に駆逐艦においてけぼりを食らった。

当時の高尾港岸壁
ところが、である。出港し間もない駆逐艦 は5月10日「ミ03船団」を護衛中、ルソン沖でアメリカの潜水艦コッドの発射した魚雷が2本被雷し戦没したのである。
人間の運命とは妙なるものである。盲腸炎が命を守った。

母は4才の姉と1才の私を連れて、実家のある宇出津に帰っていた。そして、海軍から戦死の通知が届いた。仏壇の前に佇み、悲痛のどん底で悲嘆にくれた。どれだけの間があったのか聞いていないが、やがて無事であることが分かった。

先日、何故か親父の乗艦していた駆逐艦の資料がないか、検索してみた。その結果、驚くほどのデータがあった。その中に米軍撮影の写真があったのである。

船腹に「カルカヤ」の文字
排水量 基準:820トン 全長 83.8m 全幅 8.08m 吃水 2.51m
主缶 ロ号艦本式缶3基

このデータを見て、「以外に小さいなぁ」という感想を持った。
これが命を懸けた親父の職場だった。
昭和50年、一通のハガキが親父の元に届いた。乗艦した戦友で生存している20人くらいのグループで組織している「刈萱会」の案内状であった。
会場は舞鶴。帰ってきて楽しそうにその時の模様を話してくれた。

数回ほどその会に参加したのだが、平成9年に逝去した。その後も刈萱会の案内があったので死去した旨のハガキを出したところ、奥様でも息子さんでも構わないから出席してくださいと案内があった。もちろん丁重にお断りした。
それから20年経た今、幹事役だった人も亡くなったであろう。
それにしても便利な世の中になったものである。親父の乗艦した駆逐艦の写真に出会うことができたのである。



2 件のコメント:

Unknown さんのコメント...

こんにちは

こちらの記事をGoogleでみつけてコメントさせていただきました。
私の遠縁の方も「刈萱」にのっており、戦死されています。
お父上とのご縁があったかはわかりませんが。

当時、戦友会の案内があったとのこと。
現在存続しているかどうかはわかりませんが、もしまだお手元に情報を
お持ちならご紹介をいただくことは可能でしょうか?

お返事をいただければ幸いです。

匿名 さんのコメント...

最近になって投稿されたのを知りました。戦友会の案内がありましたのでお世話されているお方の住所とお名前をPC住所録で探してみましたが削除したのか見当たりませんでした。という訳で、残念ながら差し上げる情報が全くなく申し訳なく思っています。
投稿いただき誠にありがとうございました。。