ニュースのタイトルは こんもりご飯に豊作祈る 輪島で「もっそう祭り」 である。
住民が皆で山盛りのご飯を食べる「もっそう祭り」は16日、輪島市久手川(ふてがわ)町本村(ほむら)地区で行われた。住民8人が先人の苦労をしのびながら椀(わん)にこんもりと盛られた約5合のご飯を頬張り、豊作を祈った。
会場の久手川町集会所では、午前4時前から今年の当番の岡本和浩さん(57)らが4升の米を炊き、「もっそう」と呼ばれる円筒状の木枠を使って高さ20センチほどに盛り付けた。
めしを詰め込む木枠 |
住民はメギスのつみれ汁、ワラビのからしあえなどとともに食べ進めた。全員がご飯を残し、持参した重箱に詰めて持ち帰った。
祭りは藩政期の農家が役人の目を盗み、隠し田で収穫した米を満腹になるまで味わったことが始まりとされる。住民が持ち回りで当番を務めて継承している。
とても食べきれない |
戸主代表のお母さん方も挑戦 |
江戸時代、年貢の取り立てに苦しんだ農民が「隠し田」で収穫した米で、白いご飯を
年に一度、腹一杯食べたことがお祭りの始まりとのこと。 早朝、4時半 久手川町の道端吉治さん宅で 6升のご飯炊きから始まりました。
ご飯は、一人5合のお米を、椀に高く盛りつける。
年貢のもとになるのは、言うまでもなく「検地」なのだ。 調べてみると次のような資料があった。
検地台帳は、耕地の広さはもちろん、土地の質、陽当たりの善し悪しなどまで克明に記録され、一定区画の土地からどれだけの収穫が見込めるかが算出されているという。
「検地」に基づいて年貢(税)が取り立てられる。
当然、この「検地」は、毎年調査されていると思いきや、なんと江戸270年を平均して、ひとつの村につき「2回」しか行われていないとか。
しかも新田開発したところは、開発時点で「検地」が行われているけれど、たとえば幕府直轄地などは、豊臣秀吉の「太閤検地」以来、検地は行われていないんだとか。
これがどういうことかというと、今でいうなら、「会計監査」が270年間、まったく行われなかったということなのだ。
平和だった江戸時代に、農業技術は非常な進歩を遂げ、江戸中期以降の1ヘクタールあたりの米の収穫量は、いまとほとんど変わりがないところまで進歩している。
それだけでなく、養蚕や、小麦、大豆、大根などの他の生産物の収穫も進んだ。
いまでいったら、明治初期の税率で、いまの所得を計るようなもの。
太閤検地の頃に定めた納税額で、いまの税金を納める。 となれば、実際には、脱税のし放題だった。
まじめなお代官は、これではいかんと検地を再施行しようとする。
すると農民は既得権を侵害されることになるから力一杯抵抗する。
まじめなお代官を「悪代官」と呼んでそしる。
お代官は、派遣された官僚ですから、民から不評が出ると、更迭の対象となる。
こうしてまじめなお代官(悪代官)がいなくなると、民ははたまた脱税のし放題となる、というわけとその道に詳しい人の話なのだ。
調べたら、「もっそう祭り」と全くよく似た行事が熊本地方にもあった。
めしの盛り方が輪島より少ないなぁ |
わんに高さ20~30センチまで盛られたご飯を食べる「盛り飯祭り」が25日、山都町白小野[しらおの]の座元民家であった。地区に伝わる伝統行事で、かつて生活が苦しかった時代、年1回腹いっぱいのご飯を食べたのが始まりという。
座元には宴席が設けられ、住民ら約30人が集まり、数人の男性がご飯を固めながら盛り付けた。みそ汁や漬物などのおかずが食卓に並ぶと、「いただきます」の掛け声で一斉に食べ始めた。
箸で崩したり、直接かぶりついたりと食べ方はさまざま。多くの人が半分以上を残したが、山都署白小野駐在所の大野正雄さん(47)は4年連続で完食。「一気にかきこむのがコツです」というが、さすがに満腹のようで「晩ご飯は食べられません」。
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