2018年11月12日月曜日

加賀藩公認密貿易

何年も前に聞いた話なのだが「銭五」は密貿易で財をなした、その証にロシア極東と交易した証拠として礼文島に石碑が建てられているという話である。
9月に礼文島に行ったのだが、その碑を見たいと思ったが、観光ルートから外れていたのが悔しく思う。

礼文島の銭五記念碑
この碑の傍に礼文町が記した案内板が建てられている。

ロシアとの交易のために、この地に事務所を構えたのだろうと思うのだが、看板を読むとその事務所の片隅でキンツバ焼を売ったのだろうと推察される。地元では「エンドヤ」と親しまれたようである。
碑の横にある看板
銭屋五兵衛の拠点といえば、金石(当時は宮越)は金沢西方の海岸に位置し、石川県では珍しく、数理に明るい地域であったと紹介する人もいるという。この地に隣接する粟ケ崎には木谷藤衛門、向粟ケ崎には島崎徳兵衛という加賀藩の財政を助けた豪商がいた。

この地から、現在は存在しないが、商社、安宅産業の創業者 安宅弥吉が出ている。後に世界的な仏教学者になった鈴木大拙の若き苦学時代のパトロンでもあった。

因みに、現在、大会社になっている、日機装の創業者もこの地、金石の出であるという。

紀州の紀伊国屋文左衛門、薩摩の浜崎太平次、加賀の銭屋五兵衛は 江戸時代の「実業界の三傑」と呼ばれたという。
肝心の本像が高すぎ!
遠く、日本海を眺望している銭屋五兵衛の像だという。 
遠く海を眺めているという
銭屋五兵衛は、江戸後期に活躍した加賀の豪商。大阪、江戸を始め全国約30ケ所の支店、出張所を持ち加賀藩の財政を大いに助けた。
明治24年(1891)5月3日、読売新聞に信じられない記事が載ったという。
オーストラリアのタスマニアへ興行に出かけていた日本人の軽業師が、現地で日本語の書かれた石碑を発見。その石碑には、「かしうぜにやごへいりようち」の13字が書いてあったそうだ。

この文字を漢字に直せば、「加州銭屋五兵衛領地」。江戸時代に加賀藩(加州)の金沢で活躍した豪商・銭屋五兵衛が、タスマニアを領有していたというのである。その面積は、なんと島の3分の1に及ぶというではないか。

当時は鎖国体制下、外国との交易は厳禁されていたが、金沢藩への献上金への見返りとして黙認されていたと言われる。銭五は本多利明の経済論や、からくり師として名を知られた大野弁吉などに影響を受けていたと言われ、海外交易の必要性を痛感していた。蝦夷地や択捉島ではロシアと通商し(礼文島には「銭屋五兵衛貿易の地」の碑が建てられている)、樺太ではアイヌを通じて山丹貿易を、また自ら香港やアモイまで出向いたり、アメリカ合衆国の商人とも交易したといい、オーストラリアのタスマニア島には領地を持っていたともいう。
銭五の肖像画
オーストラリアにまで交易に行ったとは!これまで自分が持っていた銭五のイメージが一変した。
その銭五は39歳のとき、3隻の船を元手に海運事業を始めた。大坂から松前までのルートで各寄港地で商品の取引を重ね、一航海で3億円の利益を上げたという。
このころ加賀藩は財政が逼迫しており、藩は五兵衛から多額の借金を重ねた。今の日本と一緒で、ふくれあがる借金に改革(天保改革)をするが、案の定、うまくいかない。

で、起死回生の一手として、やむなく海運業を藩で行うことになった。もちろん「士農工商」の時代なので、これは屈辱的なことだったが、背に腹は代えられない。

このとき、五兵衛の3つの船が藩に買い上げられ、経営を委託された(御手船裁許)。こうして藩の改革に協力することで、五兵衛は一代で財をなしたのである。伝説によれば、全国に支店34カ所、持船は約200隻を数えたともいう。

銭五記念館展示の北前船
藩重役の交代で銭五の処遇が一変することになる。河北潟埋め立て事業で毒をまいたとでっち上げで投獄された。一族郎党全て捉えられ弟は張り付けにされたと記録にある。
藩の財政も借金帳消し、加賀藩万々歳ということになったという。
善政を敷いたという加賀藩の政治に吐き気を覚えた。

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