東京の銭湯創業者は石川県出身者が多いとは聞いたことがあった。それも七尾以北の能登出身者が殆どを占めるという。最近のことだが、それは東京に限らず大阪も東京に劣らないほど石川県出身者が多いという。
その理由を知りたくて調べてみた。
もともと、北陸は昔から出稼ぎの多い地域だった。また、江戸時代から明治時代にかけて、北陸から東京に出て、大工、左官や古本屋、豆腐屋、銭湯を経営する人が多かったという。
そして、東京や大阪で銭湯を開業すると、身内や知り合いを呼び寄せた。帳簿をまかせるなら、信頼のできる身内が一番というわけである。さらに、仕事を覚えた彼らが、のれん分けの形で新たに開業して、北陸出身者の経営する銭湯がますます増えていった。
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堂々とした構え |
しかも、北陸の人間は、出身地別に団結力が強く、仲間内での資金の融通もし合っていた。そういう助け合いを利用して銭湯を開業する人も多く、さらに北陸出身の銭湯経営者が増えていったという。
ちなみに、大正元年、初めて風呂場にペンキ絵を描いた神田の「キカイ湯」の経営者も、石川県鳳至郡の出身者だった・・・
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立山と北陸新幹線の絵も現れた |
銭湯の仕事は、朝早く夜遅い。しかも、かなりの重労働である。しかし農作業に比べれば,さほど苦にならない。農家の次男・三男は、故郷にいたのでは自分の土地や財産を持つことは難しかったため、都会へ出て、それらの重労働に就いて長い下積みを重ねながら、独立して自分の店を持つようになったからだといわれている。また、雪深い気候条件のためか、厳しい自然で培った「ねばり強さ」が適していたともいわれている。故郷にいたのでは、自分の土地や財産を持つことは容易ではない。その彼らにとって、土地も建物も自分の財産になることは大きな励みになり、その為にセッセと働いたのだそうだ。そして、同じ村から大阪に出てくる。下足番からたたき上げられ、やがて独立して自分の銭湯を開業するに至る。そうした積み重ねが、結果として、同郷の出身者が多くなった。そういう村の属する県が、北陸そして石川県だったのである。
だが近年、住宅事情の変化で来客数が激減したため、廃業する銭湯が後を絶たないのだとか。それでも銭湯は広大な土地を所有するため、マンション経営に転向するオーナーが多いという。創業者の苦労に感謝々々であろう。
大学病院前大通りにあった「大学湯」がなつかしい。
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