解説では次のように記されている。
妙蓮は日本に現存せる多頭蓮の代表的なものなり。
蕾の間は一つであるが、共同花弁が百枚ばかり散ると、花群が二つ三つ、多くは七つ八つにも分離する。
一つの花弁の数は千五百枚から三千枚を有す。
蓮の実というものがならず、花のままに枯れる。
この妙蓮を煎服すれば、乳の不足その他諸々の血の道の薬となり古来有名なり。
持明院の妙蓮(学名Nelumbo nucifera Gaertn.)は、多頭蓮の1種で、茎頭に多数の花をつける全国的にも珍しい蓮である。妙蓮は毎年7月中旬から8月中旬にかけて開花し、茎の先端の蕾は開花するに従い約100枚の花被が落下して多頭花が出現する。花弁は1,500枚から1,600枚で、花の直径は約15cmから25cmあり、花及び葉の高さは160cm前後に成長するものが普通である。又、この妙蓮はおしべがすべて花被に変形しているため種子ができない。故藤井健次郎博士(金沢市出身 植物遺伝学者 1866~1952)の研究によれば、持明院の妙蓮は花托の分岐によって生じた多頭蓮とは異なる奇蓮である。
妙蓮は、持明院が金沢市本町にあった大正12年3月7日に、国の天然記念物「持明院妙蓮池」として指定されていた。しかし、市街地整備事業に伴い生育地の約半分が道路になったことにより池を拡大したが、生育状況が良くないため、一部を同市沖町の蓮田へ移植し、その後持明院が同市神宮寺に移転した際、沖町の妙蓮を現在地に移植した。このため、国の生育地指定は昭和47年7月11日に解除されている。
現在は昭和46年に持明院敷地内に作られた約430平方メートルの池に約100株ほど生育しており、毎年80個前後が開花するなど良好な育成状況を回復しており、指定して維持保存していく価値は高い。
持明院故事来歴
当山は弘法大師入唐求法の時、インドの高僧般若三蔵よりこの妙蓮の種をうけ、弘仁年間北国巡錫のときこの地に来り、鎮守白髭明神の霊告により、本尊不動明王一体を刻み持明院を創立せられたり。
爾来いくたの兵火にかかり、万治元年高野山より澄遍僧都、子安地蔵尊一体を請求しさらに当寺を復興せり。
明治初年神仏分離の法により、明神社と寺を隔てて蓮池も二分せり。以後明神社の蓮は普通の蓮に変化す。以後持妙院の端蓮として伝わる。
大正12年3月内務省より、全国に唯一の多頭蓮の現存せる貴重のものとして天然記念物に指定され、学名を「妙蓮」と改め今日に至る。
昭和33年金沢駅前広場拡張計画により蓮池百坪を埋め、更に新しく池を変更して妙蓮を植えたり。
而るに以来公害等により妙蓮の数減り滅亡にひんす。これを見るにしのびず昭和46年加賀蓮根発祥の大樋の地に移植を致し今日の成果を得たり。
妙蓮は日本に現存せる多頭蓮の代表的なものなり。 蕾の間は一つであるが、共同花弁が百枚ばかり散ると、花群が二つ三つ、多くは七つ八つにも分離する。
一つの花弁の数は千五百枚から三千枚を有す。
蓮の実というものがならず、花のままに枯れる。
この妙蓮を煎服すれば、乳の不足その他諸々の血の道の薬となり古来有名なり。
本尊不動明王
弘法大師作とつたへ一木一丈、木彫りにして一千有余年を経ている。霊験あらたかな尊像なり。北陸不動尊霊場第二十五番札所なり。
端蓮の額
福井藩主松平公は三年つづけて妙蓮を移植せるをもつて端蓮の筆跡を残す。
一草庵旧跡と利休の木像
仙叟居士旧跡一草庵と利休木像
7月21日から8月12日まで花が観賞できるという。まだ行ったことはないので是非行ってみよう!
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