昨日の「晴天を衝け」で、富岡製糸場が開設されたのが明治5年、この年に3年務めた大蔵省を辞めた人間渋沢栄一を活写していた。横浜焼き討ち→幕府転覆を目論んだ渋沢だったが、平岡円四郎の眼力で一橋家仕官に取り立てられ、即、栄一の能力が全開、パリ万博派遣団の一員になった。パリ在住の一年半は渋沢栄一の才覚が遺憾なく発揮、帰国して役人に取り立てられた。このあたりは脚色もあるだろうが、大隈、西郷などの重鎮と堂々と渡り合い、民で生きる覚悟を決めた経緯が面白い。そんな歴史に触れたのがこの異色の大河ドラマである。実に切り口が面白く展開するではないか。
さて、ドラマに出てきた富岡製糸場を見学したことがあった。
明治5年完成の建物は現在も新築したなりのようだった |
入り口頂部に明治5年と刻まれたレンガがある |
案内人の説明に熱がこもっていた |
この製糸産業で富岡に次ぐ規模の製糸場が金沢にあったという。富岡開設の2年後だから急いで設置したのだろう。運営ノウハウも富岡で学んだという。
明治7年、長谷川準也(後の2代目金沢市長)らが設立した金沢製糸会社によってそれは開設された。官営模範工場の富岡製糸場を範としており、当時は富岡製糸場に次ぐ全国第二の規模であったという。だが、典型的な武士の商法だったといわれ、金沢製糸会社は経営の失敗もありわずか数年で解散したが、石川県の殖産興業の先駆けとなったのは間違いない。
設置された場所は中央小学校の敷地。
玉川公園・三谷産業付近にある中央小学校 |
工場規模は富岡製糸場に次ぐ |
それでも、津田駒のご先祖が設立に参画しており、現在も繊維関係の業務が展開されている。加賀藩には渋沢栄一のように華々しく生きた人間はいなかった。が、そろばんサムライ
の子孫は陸軍の会計長までしたというではないか。
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