2020年2月23日日曜日

マイカー遍歴(その1)

ウインダムからアクアに乗り換えて7年が過ぎた。国の予算枠内の措置だった10万円還付期限切れぎりぎりの登録で滑り込みセーフからもう7年。
だが、新車にしろ10万円にしろ、マイカー1号から現在の6号車を買った中で昭和48年にマイカー第1号のいすゞベレットが一番嬉しかった。このベレットは6台の買い換えのうちベレットだけが中古車だったのだが、この俺もオーナーになったという感激が大きかったのである。

ベレットは、いすゞ自動車が1963年(昭和38年)から1973年(昭和48年)まで製造、1974年(昭和49年)まで販売していたという。 技術者主導で設計製作が行われ、当時としては数々の新機軸を盛り込んだ、1960年代の日本車を代表する車種の1つ。外観は卵の殻をモチーフにスタイリングされた、丸みの強いコンパクトなものとなっている。1 tを切る軽い車体重量を生かしてモータースポーツでも活躍し、スカイライン台頭以前はサーキットを席巻した。
 
マイカー第1号車(写真はネット検索による)
サスペンスが柔らかいので走行性は快適だった。子供を連れて瀬戸内海の海に海水浴に行った時、子供が海に入っている写真を撮ったのだが、カメラをボンネットの上に乗せたまま置き忘れた。免許取り立てだから前方ばかり注意してボンネット上のカメラに視線が行かなかった。で、帰って車からから降りて初めて気づいた。それだけクッションが柔らかかったということだろう。

昭和49年はオイルショックがまだ冷めない時期だった。この年の夏、同僚2人を乗せて能登に向かった。鳥取砂丘あたりで仮眠、敦賀経由で実家に到着した。片道1000km。途中のスタンドではガソリン不売のため、灯油缶2つにガソリンを広島の行きつけのスタンドで購入しトランクに入れて走行した。トランクを開けるとガソリンの匂いが充満していた。これは一つ間違えれば「爆発」もんだった。

当時、ガソリンは55円/ℓから急激に上昇し90円台になっていた。
で、この車の燃費は現在までの6台のうち最も走行距離が短かった。何と、ℓあたり5km程度。だけどバンパーは鉄製メッキ塗装で、極めて頑丈にできていた。交差点直進中に前方の車が渋滞でブレーキをかけたので自分もブレーキを踏んだ。そうしたら、対向車が右折したので自分は停車。そこに対向の右折車が「ドカーン」と衝突した。

怒り心頭、方向変換して相手の車の後ろに付けてクレームを云った。が、当方の車はバンパーにほんの少しのかすり傷。相手の車をみると運転席側のドアが大きく凹んで見るに堪えない損傷だった。
1年半ほど乗っていたら、運転中エンストを起こした。原因はイグニッションコイルのショートだった。どうもいすゞ車は同僚が乗っていた117クーペもコイル焼けを起こしているので、部品メーカに難点があるのだろう。
そのうち塗装にヒビが入って買い換えを検討することにした。(つづく)

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