2020年4月5日日曜日

第1種原付運転許可証と医師の診断書

昭和35年は高校3年だった。教室で2,3人とだべっていたらバイクの話になって、「わしゃ原付許可証とることにした」というので自分も欲しいと興味を持った。申請書に添付する医師の診断書を今日もらいに行くというので、わしも許可証が欲しくなったから、その申請に必用な医師の診断書が欲しいなぁ・・・と云ったら、「ほな、わしが頼んでみるぞ」となった。

診断書料100円を渡し、次の日、何と診断書書いてもろたぞと、それを受け取った。
考えてみればおおらかな時代だったんだなぁと思う。
お陰様で広坂警察署で講習会を受け、第一種原動機付き自転車運転許可証を交付して貰った。

翌年の昭和36年3月に卒業し就職した。勤務箇所は岐阜駅から東海道線に沿った徒歩10分の所にあった。5月から6月にかけ、三島市にあった中央鉄道学園三島文教所に入所、そして岐阜に帰って間もない7月に思いがけない辞令が出た。赴任先は九十九湾ほとりに設置されていた小木工事区だった。

九十九湾蓬莱島
その事務所に単車があったが誰も運転する職員はいなかった。というより、進駐軍払い下げのジープが運転手付で配置されていたのでその必用がなかった。
単車に乗ってみたいと思ったが、第1種原付許可証では不可だった。単車はメグロ125ccだったのだ。
排気量125ccといえども重量が半端なかった
8月のある日、宇出津で2週間の講習会を受講すれば運転免許が取得できるという話を聞いた。
恐る々々上司である助役に、運転免許取得の講習会に行きたいので2週間の休みを貰いたいと申し出た。いいよと即答を得て講習会に臨んだ。出勤簿は休みの処理は無かった。
小学校の夏休み期間に教室で講習、グラウンドで実習して学科と実地の試験を受験し合格した。免許は「軽二輪運転免許証」だった。そして晴れてメグロ125ccに跨がった。

このタイプだった
写真を探したが見当たらなかったのでネットで探した。
この同型単車に跨がって宇出津から小木間のまだ軌道が敷設される前に走破した。
宇出津田ノ浦海岸の眺望は最高だった
トンネル区間は側壁沿いに設置されている側溝の蓋の上を走ると快適だった。だが、明かり区間では所々に横断開渠が設置されているので、重い車体を持ち上げて渡った。
10kmの区間だったが、廃線となった今でも走行はできないだろうなぁ。



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