2020年3月22日日曜日

金沢と能登の「俺がやらなきゃ誰がやる」

このブログで火野正平が能登に訪れた模様を既に記したのだが、寺分出身の女性が手紙に書いた「宝暦義民の碑」と宝暦杉を見てその手紙を読んだ。旧柳田村出身者としてそんな村の歴史があることを知らなかったのが恥ずかしいと思ったものだ。



歴史を調べてみると、宝暦5年(1755)、加賀藩では正銀に代えて藩札を発行して領内に流通させたため、インフレが起こり、領内百姓らは物価高騰による生活苦にあえいでいたところ、翌年の宝暦6年(1756)には、能登で大洪水と飢饉が発生、多くの死者を出す被害に見舞われた。

このため、千人ともいわれる農民が、加賀藩の十村役であった宇出津の源五宅を襲撃する、いわゆる「宝暦一揆」が起こり、藩の追及に対して、中斉村甚左衛門はじめ7人が罪を一身に被って家財没収や入牢となり、ついには獄死した。
例年の凶作の中、宝暦8年(1758)にも宇出津組で年貢米の不足が摘発され、このときにも寺分村勘十郎らが責任を負って入牢、獄死しており、地元には彼ら「宝暦義民」を称えるさまざまな石碑などが建てられている。

金沢でもこれと似た一揆が二件発生している。
宝暦の一揆が起きる80年前の天保9年(1838年)、いわゆる天保の大飢饉は言語に絶するものであったと言う。当時、西念新保村・北安江村・南新保村の村役15人は、28ヶ村を代表して凶作に苦しむ農民を救う為、加賀藩に年貢米の減免を願い出たが、藩は、この減租運動を弾圧し、彼等の家族123人共々9年間越中五箇山に流刑に処した。後に明治30年(1897年)勝海舟は事件の真相を知り、天保義民とたたえ記念碑の碑文を大書きされ、当時の関係町村有志と遺族の手により今の立派な石碑が建立された。

天保義民の碑(駅西中央公園内)

勝海舟は粋な取り計らいをしたものである。

勝海舟直筆という
そしてもう一つは天保義民一揆から20年後の 安政5年(1858)、米価高騰に苦しんだ町民たちが、金沢城下を見下ろす卯辰山に登り、金沢城に向かって「ひもじいわいやぁ」などと大声で泣き叫ぶ「安政の泣き一揆」が起こった。
これは暴力行為を伴わない方法で、加賀藩でも御蔵米500俵を放出し、米価の上限を設けるなどして事態は沈静化するが、首謀者として髪結いの能美屋佐吉ら7人が捕らえられ、牢死を除く5名が刎首の上、梟首されたという。

のちにこの7人を供養するため、卯辰茶屋町の侠客・綿津屋政右衛門が「七稲地蔵」を観音坂に建立し、今でも見ることができる。

七稲地蔵

寿経寺では毎年鎮魂の祭礼を行なっている
銭屋五兵衛も無実の罪を着せられ牢死した。五箇山観光のついでに橋を渡って直ぐの場所に天保義民の牢屋が今も残されていた。

加賀藩が悪者に違いないのだが、江戸時代の一揆は全国全て似たような処分が行なわれている。
それにしても村役の皆さんは、農民の窮状を憂い行動を起こした。その勇気を称えたい。
自分が村役の立場だったら逃げただろうなぁ。
 

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