3D地図の威力が素晴らしい。平面のほか、自分が見たいと思う角度が自由自在に調節できて、立体写真(地図)が見ることができるようになった。この仕組みがどうなっているのかさっぱりわからないが、これから行ってみたい場所、行ったことがある思い出の場所を見るのが楽しみである。衛星写真でこんなことが可能なのか?どう考えても地図の作成方法が納得できない。車上カメラの写真と合成できるわけはない。謎である。
![](https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEiz5snyHkSZORuZfTVFCHdGhZp9cSqQewheW71ncfc25JijoWN94lvWBx-S_2QZcvSugtWHmJHd00l5mkcM02rFPw_lMYwrbJ2eirc4WtjnEktWMeNguZx1nkjI1NUlF3y3LgzUgvbObQin/s320/%25E2%2596%25A0%25E2%2596%25A0%25E2%2597%258F0%25EF%25BC%258E3D%25E5%259C%25B0%25E5%259B%25B3%25E5%25AE%2587%25E5%2587%25BA%25E6%25B4%25A5%25E3%2583%25BB%25E4%25B8%2583%25E5%25B0%25BE%25E6%2596%25B9%25E5%2590%2591.jpg) |
この地図で能登商船宇出津・七尾間の航路が想起できた |
能登商船能登沿岸航路は昭和39年10月に能登線が蛸島まで全通したことにより、不採算航路となって廃止された。能登線建設に従事した者として、その片棒を担いだことになる。能登線が開通するまでは七尾港から宇出津港・松波港・飯田港へと能登商船の航路があった。冬場は穴水・飯田間の国鉄バスが不通になることがあるため、宇出津港から七尾港、帰省時には七尾港から宇出津港まで能登商船の定期船を利用した。
船は小型より少し大きかったように思うが、船室は6畳間くらいで畳敷だった。冬場は海の荒れた日は大きな揺れがあったり、船室は狭苦しい感じだったので、ただの一度も入ったことがなかった。所要時間は2時間半、港の景色が前方に確認できるようになっても、なかなか近くならなかった。その頃の宇出津港では、港の広場におびただしい材木と薪炭が積み上げられていた。
昭和20年代後半から昭和30年代前半までは、新築ブームと薪炭需要で柳田村は大いに潤った時代だった。数軒あった料亭では毎晩宴会が開かれていたのである。
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別府港 まだ定期船は就航しているのだろうか |
船旅は高校の修学旅行で別府・大阪間が最長区間であり最長時間でもある。小高い山は野生猿の楽園高崎山。
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関西汽船別府・大阪南港間 今もあの時の雰囲気が蘇ってくる |
この船が別府港を出港するときは随分賑やかだったように記憶しているが、今では新幹線や飛行機が頻繁に行き交っているので、昔の賑わいはないのだろう。
次はどこの地図を見るかなぁ。
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