2020年11月10日火曜日

バブル時代の記憶(5)土地さがし

平成7年はバブルが終わる年なのだが、これは終わっていなければ分からないことである。土地価格はうなぎ登りに上昇していた。家を建てる場所としては、高速のインターから近いことを条件にした。示野あたりに絞って松村三丁目界隈を歩いてみたりした。が、売り地は見当たらなかった。不動産屋にも探して貰ったが、疋田はどうかというので見に行った。画地が50坪前後と狭いので2画地となり平面形状がいびつになるので見合わせた。

自分も車に乗って売り地が無いか見て歩いた。百坂を見て踏切を渡って福久南交差点方向に車を走らせた。そうすると「売り地」という看板が目に付いた。間口8m、奥行き35m、約85坪だった。間口の割に奥行きが長すぎる。新聞広告では50万円/坪。建て売り用地だった。湊あたりまで探して行った。その内、不動産屋が疋田に100坪の売り物件があるというので現地へ走った。公民館の近くだったが、上空に送電線があるのが難点だった。しかし、面積的にも条件が合うので買う話しを進めてくれと依頼した。家の設計も進んでいた。両親、義母、娘夫婦、独身の娘と吾々夫婦なのでそれなりの規模になった。

ところが、疋田の土地所有者が入院したので買い入れの交渉が進まないという連絡があった。2週間ほど待ったが退院されなかったことから、間口の割には奥行が長すぎる物件の売主に話しを聞いてみることにした。地主は福久町居住のおばあちゃん名義。間口が狭いので4m程区画を大きく出来ないか打診した。即、OK。で、それで契約することにした。

面積130坪、単価28万円、約4千万円。銀行に融資の相談に行った。即、OKだった。しがねぇサラリーマンに即,決定だって。バブル様々なのだ。土地が決まったので建物契約を急いだ。6月、住宅金融公庫の借り入れ契約のために再び銀行へ。これも円滑に話しが進んだ。

隣の家は建て売り分譲(おふくろを連れてきた)

地鎮祭(安全祈願)

隅々に清めの酒 工事の無事を祈願した
借入金は8千万円に上った。住んでいる家を売却して返済に当てる計画だったが、売り値2,800万円としたが数人の見にきた人があったものの、契約には至らなかった。これには焦った。そのうち買いたいという人が現れた。しかし、足下を見て買いたたかれた。不動産屋は売り時という。3千万円で売れると値踏みした不動産屋はいい加減なものだ。結局、数百万円値切られてしまった。

何故、中々売れなかったか。それには原因があった。座敷、縁側、天井は全て漆塗り。能登仕様の家だった。親父が能登で漆をかけてくれたのである。
結局、中能登出身の人が「値打ち」と判断されたことになる。これは能登人しかわからないのかも知れない。
工事中に親父を車椅子に乗せて現地を見に来た。顔をくしゃくしゃにして喜んでいた。だが、家の引き渡しを年内と約束していたのだが、2週間遅れて平成9年になった。1月14日入院していた親父が明け方に息を引き取った。平成10年3月、46年間務めた国鉄清算事業団を退職、この退職金の一部を返済にあてた。


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