2020年11月9日月曜日

バブル時代の記憶(4)親父が倒れた

 平成7年の年末、両親が住む柳田に帰省した。榊を採りに山に行きたいというので車で春に蕨を採りに行く辺りで山に入って榊を採った。その帰り道、いつになく親父が「もう、二人の生活は限界だ」と漏らした。母の認知症が進んで炊事も親父がするようになっていたが、これまで、そんなことは一切喋ることは無かった。よっぽど堪えていたのだろうと思った。

家に着いてから、「そんなら、一緒に住む家を建てるか」と親父に云った。親父は頷いた。平成8年を迎え、家の設計に取りかかった。前の家も自分で平面図を作成して建築士に設計を依頼したのだが、今回もその流になった。それから1ヶ月も経たない2月8日、親父が脳梗塞で倒れ入院したという知らせが届いた。丁度その日は月曜日、早朝4時半に金沢から名古屋へ車で行き10時過ぎに職場に連絡があった。すぐ金沢へUターンしてそこから能登町の宇出津病院に向かった。

病床に横たわる親父に声をかけても反応はなかった。そして、驚くことに病院は何の手当もしていなかった。金大から医師が来るのが水曜日に決まっているのだという。医師がいなければ飯田病院に移送すればいいのにと思うのだが、脳梗塞の患者はそこまでする必要が無いという院長の方針なのだろう。このような扱いに腹が立ったので、院長に救急車で飯田病院に移送するよう依頼した。

1週間ほど寝ずの看病が続いた。これでは堪ったもんではないので、県中転院の依頼をして移送して貰った。入院が2週間を過ぎる頃、医師から病院としてこれ以上治療しようがないので退院して頂くことになるが、自宅での介護は困難なので老健施設の入所が必用だと宣告され、途方に暮れる気持ちで老健施設を見て回ったが、どこも入所予約者で溢れていた。

4,5軒回ってようやく受け入れ可能な施設が見つかった。入所してからリハビリの効果なのか、ある程度の会話ができるようになった。

家の設計を急ぎ、業務上、ある住宅メーカーと面識ができたのでそこに依頼することにした。

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