2019年4月7日日曜日

いつの間にか家が無くなっていた

ここ2カ月足らずで町内の住宅2軒がなくなってしまった。そのちょっと前に不動産関係の店舗がなくなった。
先だって、十年ひと昔というブログで町内の変化を紹介したことがあったが、今回はほんのちょっと前の出来事なのだ。

バスに乗っていて建物がなくなっているのを見かけるのだが、そこにどんな建物があったのか思い出せない。
ところが最近は非常にありがたいソフトがあるお陰で、2,3年前の風景がどんなものだったのか再現できるのである。それは何かというと、グーグル地図のストリートビューである。

そのストリートビューで町内にあった建物を見てみることにした。
下の写真はほんの2カ月前まで建物があった状態の写真である。

遠景

近景
ここの住人がお元気だった頃、車庫2階の事務所に2度ほどお邪魔したことがあった。そこの奥さんがパソコンを買われて据え付けと取り扱い方の説明をしたことがあったのである。
もう、ここは更地になった。家はそんなに古くはなかったが、障子に畳が基本の間取りなので買う人がいないということだろう。

ここも取り壊され、4区画にして分譲中である
この家は敷地も広く、豪邸が立っていた。敷地は4分割され分譲中である。
また、わが家の近くにあった不動産関係の店舗も壊され、現在は新築中である。建物の配置から、もう1軒建つのかなと思われる。

ストリートビューはいつまでこのままなのだろうか
また、4,5年前までは住宅地に囲まれたレンコン田があったのだが、そこも埋め立てられ住宅が数軒立ち並んだ。

レンコン田を宅地造成した
あっという間に住宅が立ち並び住宅街が形成された
ストリートビューを見ていて、去年は癌の騒動で実家に行けなかったのでその様子を見てみた。

空き家になって22年、どうするか思案六法
ストリートビューの写真はいつ撮影したのだろうか。だいぶ障子紙が破れみっともなくなっているのが確認できたので、そんなに時間の経過はなさそうである。来月あたり2年ぶりに行かずばなるまい。

2019年4月6日土曜日

予約なしの飛び込み診療

歯の痛みが続くので、残っていた「とんぷく」を服用していたのだが、数日間も一向に痛みが治まらず歯医者さんに飛び込み診療してもらった。
予め電話で診てもらえるか問い合わせたところ、待ち時間がかかるかもしれないと云われ、それを承知で朝一番で歯医者さんに向かった。

歩いて10分、8時40分頃到着した。9時からの診療時間なのに既に3人程待っている人がいた。予約していても1時間は待つのはザラ。2時間覚悟で待つことにした。
ところが40分ほど経った9時20分に診察室に入ることが出来た。
痛む歯は1年ほど前にも痛みがあったので処置を頼んだのだが、この歯はしばらく様子を見ましょうということで抜歯しなかった。

レントゲンを撮りますと云われその部屋に入った。このレントゲンは10年前はまだ導入されていなかったように思う。

レントゲン
撮影後、診療台に座って台に取り付けられたディスプレーで写真の説明を受けた。
痛む歯だけではなく、対象は全部の歯。

ハイテクシステムは当たり前になった
「インプラントの部分の歯茎の骨はしっかりしていますが、ほかの歯の骨が有りませんね」。なるほど、歯茎の部分が判別できない。ということは、そのうち全部の歯がだめになるということか?と恐ろしくなった。

「臼歯は抜歯し、その隣の歯は歯茎より上部を切断します。」
そして「麻酔注射します」
注射してから歯をゆすいでと指示があって紙コップの水を口に入れ吐き出した。右口元がしびれているため、ぐちゅぐちゅやっている時、だらしなく口が開いており、そこから水が漏れて紙製の前垂れがビショビショになってしまった。


そして抜歯と切断、神経がマヒしているので何がどうなっているのか把握できない。
反対側の奥歯4本の義歯の金具が、抜歯した歯に嵌るようになっていたので、抜いてどうなるのか気になった。

義歯を外し加工をはじめたようだ。
しばらくしてそれを入れて、「ギシギシしてください」と指示。これには閉口した。何せ抜いたばかりのところが痛いのだ。それをこらえてどうにかギシギシを終えた。

治療時間1時間で終了した。1週間後の予約を入れ歯科医を後にした。
「俺の歯はいつまで持つのかなぁ」と心配しながら家に向かった。



2019年4月5日金曜日

「石場がち」ってわかんないだろうなぁ

「奥能登トリビア蔵」というネットサイトに懐かしい写真が掲載されていた。
その写真は、「石場がち」である。
昭和30年代の中頃まで、新築の家を建てるとき、柱に当たる位置には大きな石を打ち込んで地固めの基礎造りした。この作業はやぐらを組み、直径50センチメートルを超える大きな材木を直立させ、ロープで繋ぎ、大勢の人足がロープを引き、ヨイショヨイショの掛け声で材木を一斉に落として石を打ち込んだ。これは長時間作業となるので、唄を歌いながら打ち込んだという。 

小生が4、5歳の頃になると思うが、実家の新築でこの石場がちをしたことを鮮明に覚えている。子供の背丈くらいある大きな花崗岩でできた基礎石を地面に打ち込むため、やぐらを立て、上部に人が乗れるステージが設けられていた。この上に乗る人は歌を唄いながら大勢の人がロープを引くタイミングや疲れをいやすため、菅笠に色とりどりの飾りつけをしたものを冠り、衣装は女性用の着物姿で歌を唄いながら踊るのである。

旧柳田村の石場がち
 写真のほか、瀬戸久雄氏(現在80歳)が次の通り投稿されていた。瀬戸氏は小生の実家のある同じ在所の人である。

            石場がち    瀬戸 久雄
平成十五年十一月二日、柳田村文化協会三十周年記念(会長 宮本康一)として、私たちの先祖が伝えてきた「石場がち」が再現される。
第一回目の練習が十月十九日、柳田村消防団(団長 山本勉)を中心に、中瀬精一さんによる音頭取り、笛太鼓の方々によってにぎやかに執り行われた。
石場がちを経験した六十代以上の人たちの話によると、字柳田では、昭和三十年五月に大路博邦さんの住宅の新築で行われた以降は、その後石場がちが見られなくなった。また、大路家の石場がちの音頭取りをされた石井の大庭作太郎さん(明治二十三年生、故人)の花笠に晴れ着すがたの写真も残っている。

子供の頃、在所でもかなりの家が新築された。その数10指に余る。考えてみれば大新築ブームだったといえる。
近所で石場がちがあると聞いてとても嬉しい思いをした。それは、おじいさんのお踊りや掛け声を合わせて綱を引く様が面白かったほか、休憩時間に必ずおにぎりが子供にも配られた。これがとてつもなく美味しく思えた。


門前地区の石場がち唄の歌詞を見つけた。おそらく似たりよったりなのだろう。

枝も栄えては葉も茂りゃ 鶴は繁盛と巣をかける
この家や館はめでたい館 鶴がご門に巣をかける
鶴がご門になんと言うてかけた 末は繁盛というてかけた

今日は阿岸の郷まつりや 小菊桜も恋をする
亀の人足ぁ八人揃うた それで上がらにゃ よだがりじゃ
能登の門前ないや 住みよいやところやいな 娘器量良し 気だて良し

きじはケンケン榊の下で 婆ばばさんおらんとて さぼとぼとと
おらちゃ初めて石場かち習るた 石のそこまでかち習ろた
嫁にもらうなら豆腐屋の娘 豆で四角で柔らかい
抱いて寝もせずいとまもくれず つなぎ船かよ俺に身は

※ よだがり=仕事仕上げの夕方  



ヨイトマケの唄は石場がちの唄である。漁師の唄、木こり唄、仕事歌は唄うことで皆の力を一つに合わせる役割があった。

漁師も仕事唄を唄った


もうこんな仕事は全てなくなった
保線区職員は線路工手長の掛け声と唄で8人くらいで枕木と枕木の間を鶴嘴で搗いていた。歌の歌詞は資料がないので残念に思う。その風景もタイタンパーやマルタイという機械化で無くなってしまった。
中学時代に唄った「ボルガの船曳唄」も仕事唄である。労働者が重いロープを引いている様が実感できた。

ところで、こんな歌を聞いた方も多いと思う。

子供の頃に 小学校で
ヨイトマケの子供 きたない子供と
いじめ抜かれて はやされて
くやし涙に くれながら
泣いて帰った 道すがら
母ちゃんの働く とこを見た
母ちゃんの働く とこを見た

姉さんかむりで 泥にまみれて
日に灼けながら 汗を流して
男にまじって 綱を引き
天に向かって 声あげて
力の限りに うたってた
母ちゃんの働く とこを見た
母ちゃんの働く とこを見た

実はこの歌、ヨイトマケは差別用語だとしてレコード販売が差し止めされていたという。
美輪明宏がこの歌を作ったのは、ある炭鉱町の公民館で行われた自身の公演がきっかけだったという。
美輪明宏をよくご存じの方の投稿
公演には、なけなしの金でチケットを買った炭鉱労働者が大勢詰め掛けた。
「せっかく来てくれた彼らを、歌で励ましてあげたい」
そう思い立ったものの、彼はあることに気付く。
それは、日本には底辺の労働者に寄り添う歌がないということ。
「それなら自分が作ろう」と考え、完成させた曲が「ヨイトマケの唄」だった。
レコードが発売される前年の1965(昭和40)年。
テレビ番組で2度にわたり歌ったところ、全国の労働者から大反響が寄せられた。
一介の歌手が、自らのイデオロギーを歌うのはタブーと考えられていた当時。

シンガー・ソングライターという言葉も、日本では馴染みがなかった時代なのだ。


全国各地に民謡が数知れぬくらいあるが、その大半は仕事唄である。
辛い仕事も歌を唄うことで紛らわせたのだろう。

2019年4月4日木曜日

81歳女子高生の卒業式

81歳の女性が通学していた高校の卒業式があったという。自分よりも5歳年上のお祖母ちゃんである。やはり事情があって高校進学を諦め中学卒業してすぐ働き始めたという。
4人兄弟の長女で病弱な両親を助け、兄弟3人を高校に通わせた。
姉として、家族のためにそうするのが当然とした考えだった。

81歳“青春”楽しんだ3年間 諦めた学業への思いかなえ…高校卒業 [大分県] 
このタイトルが自分の心に響いた
西日本新聞社 2019/03/12 17:17

大分市の通信制高校「府内高校」の卒業式が6日あり、44人が巣立った。その中に、81歳の濱住律子さん=同市判田台=の姿があった。家計を助けるため諦めた学業への思いを70代になり実現。孫のようなクラスメートと“青春”を楽しんだ3年間だった。

卒業式
日田市出身。体の弱い両親を助けようと、中学卒業後、すぐ働き始めた。4人きょうだいの長女で、下3人は高校に通わせた。「いつか私も」との願いはあったが、家計の柱として仕事は辞められなかった。
結婚後は、転勤の多い夫とともに大分、熊本両県を巡った。2人の子宝に恵まれ、子育てと家事に追われた。孫の育児も手伝い一段落した60歳頃、激しいめまいや耳鳴りなどが現れる「メニエール病」に襲われた。症状が落ち着くまで約10年。やっと自由な時間を得たとき、思い浮かんだのが高校進学だった。

2015年末、長女の裕子さん(56)に初めて思いを打ち明けた。「母が高校に行きたがっているのはうすうす感じていた」。裕子さんが、インターネットで府内高校を見つけた。問い合わせると年齢制限はなく、16年4月、78歳で念願の高校生になった。

入学したのは週1日登校するコース。自習が欠かせず、難しい問題は裕子さんに助けてもらって学んだ。特に歴史が好きになった。「新聞やテレビでは学べないことばかり。視野が広がった。人生いつでも勉強は大切ですね」。家では正座で勉強し、膝を悪くしたこともある。

毎週水曜日の登校日は10代のクラスメートと弁当を食べ、体育の授業もともに受けた。入学当初は軽いストレッチだったが、最後は学校近くのジョギングやシャトルランもこなした。授業中、女子生徒が「お金持ちと結婚したい」と言うと、濱住さんは「それじゃ駄目。よく働く人と結婚しないと」。教科書には載っていない人生の先輩の言葉は重みがあった。級友の小川翼さん(19)は「いつも僕たちのお手本になってくれて、尊敬しています」。

3年間、思い出すのは楽しいことやうれしいことばかり。卒業後は市立図書館で勉強を、近所の施設で運動を続けるつもりだ。「年は取るけれど、心は若々しさを持ち続けていたいから」

ご卒業おめでとうございます
5歳年下の自分なのだが、最近は集中力がなくなったとそう思うこの頃である。この人は78歳のときに長年の夢だった高校に入学したという。強い向学心で一念奮起してあこがれの高校進学を果たしたこの人と比べると、実に情けない自分がここにいる。

先だって、町会のアンケート調査入力作業を依頼されて取り組んだのだが、20分もすれば続ける気力が萎え、視力も落ちた。
いやはや81歳の卒業生には感服するばかり。


2019年4月3日水曜日

「滲み出る悪しき高野連の悪しき体質」という記事

どうも腑に落ちない。
去年の仙台育英と大阪桐蔭戦では仙台育英が勝利した。勝因は大阪桐蔭1塁手のエラーだった。捕球の際にベースから足が離れたのだ。実はその前に1塁走者から足を思い切り蹴られたのだ。これはビデオで確認できる。
だが、高野連はこの問題に一切対処しなかった。なかったことにしたのだ。

先月末、こんな記事が掲載された。
星稜(石川)の前監督、山下智茂名誉監督(74)が29日、日本高野連に謝罪した。
敗退した28日の試合後、習志野(千葉)のサイン伝達行為を疑い、相手監督に直接抗議を行った林和成監督(43)の行動が物議をかもしていた。この日は解説の仕事で甲子園球場を訪れており、日本高野連の幹部に「お騒がせしたことをおわびいたします」と話した。

これを読んで違和感を覚えた。何でヤマカンが高野連にあやまる必要があったのかと。
そのあと小林信也氏の記事が掲載された。全文が長いので中身の濃い部分を抽出した。

滲み出る悪しき高野連の悪しき体質   作家・スポーツライター 小林信也
(注;一部割愛)
いみじくも、習志野の監督は、抗議に現れた星稜の監督に対して、 「星稜もやっているでしょう」と言い返したという。その言葉に、高校球界にはびこる勝利至上主義の弊害、ルール破りも当然だとする根深い実態が露呈している。

この問題は、さらにもうひとつ波紋を広げている。
習志野が実際にサイン盗みをしていたかどうかは調査が必要だが、このような疑惑が指摘されたら、根本的に改善する方向に動くのが日本高野連の当然の姿勢だろう。ところが、星稜の監督をバッシングする方向で事態は収拾されているのだ。

翌日、報道陣に対して星稜・林和成監督は「私の行き過ぎた言動と行動で多大なご迷惑をお掛けしたと日本高野連に謝罪した」と語ったと報じられた。だが「私の中ではあったのではないかといまだに思っている」とも語ったという。

日本高野連の竹中雅彦事務局長は「どういう動作がそう見えたのかを確認したい」と話し、星稜に対して証拠と主張する1回戦の映像提出を依頼したそうだ。また一方で竹中事務局長は「試合後はノーサイドが原則。試合後の行動は反省してください」と注意したと報じられた。

この竹中事務局長の発言にこそ、日本高野連の悪しき体質が滲み出ていると私は唖然とした。ノーサイドの精神というスポーツ用語を自分たちに都合よく曲解し、正義を押し付け、本質をあやふやにする、最も許されざる姿勢だと思う。
ノーサイドとは元々ラグビーのスピリットを表す言葉だ。そのラグビー界では、試合が終わると敵も味方もなく、ビールを酌み交わし、試合を振り返る。そこにはレフリーも加わって、時には激しい議論にもなる。ジャッジを巡って、忌憚のない意見を交し合うのだ。


ルールの解釈、ジャッジの意図、試合中には会話できない深い部分やお互いの意見の相違を試合後に確認する。私は、選手と審判が口角泡を飛ばし、時には試合中以上に高いテンションで口論する光景を何度も見ている。それでこそ、互いの理解が深まり、次の試合に臨む準備ができる。ノーサイドとはこういう姿だ。自由な議論や会話をするという本質を曲げて、「言うことを聞け」と言わんばかりの暴言だと気付いていないほど、日本高野連は裸の王様になっている。

● 「ノーサイドが原則」の発言に 滲み出る悪しき高野連の悪しき体質
この問題は、さらにもうひとつ波紋を広げている。
習志野が実際にサイン盗みをしていたかどうかは調査が必要だが、このような疑惑が指摘されたら、根本的に改善する方向に動くのが日本高野連の当然の姿勢だろう。ところが、星稜の監督をバッシングする方向で事態は収拾されているのだ。
明徳が松井5連続4球という愚挙はルール違反したわけではない。だが、これも勝利至上主義を貫いた馬渕監督の頭の中なのだ。ルール違反ではないにしろ高校野球のあるべき
姿とは逸脱していると思う。

ある記者が林監督の談話を取材した一部。
私も星稜高校の野球部OBです。1992年、夏の甲子園に出場しました。2年生でした。
松井秀喜さんが5連続敬遠された「星稜VS.明徳義塾」の試合もスタメンでした。
しかし私は92年の敬遠より、今回のサイン盗みのほうが許せません。
敬遠はルールで認められていますが、サイン盗みは禁止されています。

当時、世論は明徳義塾を大バッシングし、その影響があったのか、次戦は敗れました。
一方の習志野さんは市立和歌山との次戦に勝利されました。彼らが正常な状態で野球をできたことは良かったと思っています。

そうしたチームを作り上げた小林監督の人徳も素晴らしいと思います。
もし市立和歌山戦で、習志野さんが本来の実力を出せずに負けていたら、騒動を引き起こした当事者として申し訳なく感じたと思います。

昭和の高校野球で、サイン盗みは当たり前の戦術でした。
相手に読まれないようサインを複雑化するなどの対策も普通に行われており、各チームが駆け引きを繰り広げていました。
それが変わったのが1998年の横浜とPLの試合で、3塁コーチの指示が問題になり、高野連はサイン盗みを禁止しました。 

以上、習志野・星稜戦ですっきりしない気分だった2,3日前までだったが、上記の記事を目の当りにして少し気分が晴れたような気がする。

2019年4月2日火曜日

候補に「令和」のほか「英弘」「広至」「万和」「万保」

昨日のテレビは朝から深夜まで新元号に関わる番組一色だった。
発表が予定より10分遅れた。日本の公式セレモニーのスケジュールが予定時刻より10分も遅れることは滅多にないことだ。天皇陛下と皇太子殿下にサインをしてもらうための所要時間の見積もりが甘かったのかも知れない。


菅官房長官が小渕官房長官がしたことを踏襲して行われた。

菅官房長官

昭和64年1月7日小渕官房長官
平成は昭和64年1月7日にスタートしたが、平成は平成31年5月1日から令和としてスタートすることになった。
政府が「元号に関する懇談会」の有識者や全閣僚会議に示した六つの元号原案に、新元号に決まった「令和」のほか「英弘」「広至」「万和」「万保」が含まれていたことが分かった。政府関係者が2日、明らかにした。

あと一つが何故か明らかではない。


新元号候補名の考案は、国文学、漢文学、日本史学、東洋史学の分野から選ばれた専門家数人に3月14日付で正式委嘱された。政府は4月1日午前、6案をノーベル賞受賞者の山中伸弥京都大教授や作家の林真理子さんら懇談会メンバー9人に提示。出席者によると、令和が一番人気だったという。

6案が9人の有識者に提示された
発表から2時間も経たない内に、新元号が入ったカレンダーが完成したり、アシカや象が毛筆で令和と書いたり、全国各地で行われた号外の奪い合いなどが繰り広げられた。
わが家にも夕刊と一緒に号外が配達された。この号外は記念に保存しておこう。

この新元号が4月1日からスタートすると勘違いしている人が多いのだとか。何だかオレオレ詐欺にあれほど注意喚起しているのにも関わらず、やはり騙される人が後を絶たないという。それとこれとは全く違う話なのだが、人間の思い込みは人それぞれなのかな。


2019年4月1日月曜日

平成時代最後の1カ月

2時間後の午前11時半、新元号が発表されるという。
最近の傾向として、西暦表示のあとに()書きに元号が記されるようになった。デジタル時代がそうさせたのだろう。
だから現代の若者は西暦の表示がスーッと受け入れられるようだ。
だが吾々世代は元号表示の方が西暦より出来事の時代感覚が体に沁み込んでいる。


例えば、小学校にしろ中学校にしろ入学した年、卒業した年は元号でインプットされているので、西暦では何年かと問われれば計算しなければ即答できないのである。
就職、退職その他あらゆることのすべてを、元号であれば昭和〇〇年、平成〇〇年と即答できる。

先日TVで沖縄の102歳の男性が、明治から平成、そして新元号の5つの時代を生きてきたという番組があった。同級生の伯父さんが現在104歳だというが、この人は明治42年生まれと推定するのだが、2年前に介護施設に入所することになって、インターネット接続環境にある部屋に入りたいという希望を出されたので、施設側が特別に配慮したという。世の中、凄い人がいるものだと驚いたものだ。

政府は1日午前、新天皇が即位する5月1日から始まる新しい時代の元号を決定する。1989年の改元時、当時の小渕恵三官房長官が「平成」の書を掲げた公表方法を参考にし、菅義偉官房長官が午前11時半ごろから記者会見して公表する予定だ。

新元号は、政府が委嘱した考案者から提出された候補名の中から菅官房長官が複数の案を原案として選定。首相官邸に各界の有識者を集め、午前9時半から意見を求める。その後、衆参両院の正副議長から意見聴取した上で、全閣僚会議で協議し、新元号を閣議決定する。菅官房長官の公表後、正午ごろから安倍晋三首相が記者会見し、新元号に込められた意義を説明し、国民へのメッセージを伝える。

共同通信によると、政府は3月14日に国文学、漢文学、日本史学、東洋史学などの専門家に新元号の考案を依頼、検討する有識者はノーベル医学生理学賞受賞者の山中伸弥京都大教授や、直木賞作家の林真理子さんらが起用される見通しだ。有識者の具体的メンバーは1日朝に公表するという。もうすぐ発表されるだろう。

予想ランキングまであるそうだ。安永・安久等、やたら安を冠する名称の人気が高い。


アルファベットのAがつくと予想する人も多いという。

それにはこんな条件があるからである。


だから安の人気が高いという訳か。
静かに2時間後を待とう。