2017年10月19日木曜日

能登島産のカボチャ600個と2画面スマホ

10月31日はハロウィンだという。こんな文化はここ数年前から渋谷交差点などで目立つようになった。どうしてこのような文化が日本に入ってきたのか調べてみた。
渋谷交差点の賑わい
キリスト教では、11月1日を諸聖者の日(All Hallow’s Day)といい、全ての聖人と殉教者を記念する祝日となっているという。
そして、その前夜の10月31日は「All Hallow’s Even(諸聖者の日の前夜)」と呼ばれ、それが「Halloween」または「Hallowe’en」と略されたのがハロウィンの語源となっているそうだ。

ハロウィンが大々的に行われているのは主に英語圏だが、特に、ハロウィンの始まりの地であるアイルランドでは、10月最後の月曜日が祝日となっており、ハロウィンを祝う習慣が最も純粋な形で残っているらしい。

日本においては東京ディズニーランドが一番の火付け役で、ディズニーランド最初のハロウィンイベントは1997年に開催されたといわれ、2000年後半になると食品会社もハロウィン商戦へ参入し、ハロウィン商品のCMを放送するなどして徐々に広まった。
定着とまではいかないが、1983年に原宿にあるキディランドで日本初のハロウィンパレードが行われた。

そんなことで能登島産のカボチャが600個も加工されて全国に向けて出荷されたという。

吾々の年代になると、「なんじゃこりゃ」と理解に苦しむ行事である。だが、昨年は500個だったカボチャの注文が今年は2割増し。来年は急激に増える予感がする。石川県の農業活性化に影響を及ぼすハロウィンではある。

さて、今日の朝刊に新型スマホの記事があった。

ガラ系の携帯みたいに二つ折りのスマホである。2面あわせて大画面の動画も見ることができるという。ドコモが中国メーカーと共同開発したのだとか。さて、値段はいか程なのだろうか。何だか爆発的ブームになるような予感がする。





2017年10月18日水曜日

2回目のMRI検査

8号線を津端方向に進み福久北を左折、福久箔団地から八田交差点に出て、競馬場近くの交差点を右折すると田園地帯。ここからの眺めは雄大な風景が楽しめる。昨日は白く輝く立山連峰が見えた。しばらく進み左折すると河北潟を横断する橋を渡る。干拓地を縦断する長い道を走り抜けると内灘大橋のたもと。そして間もなく金沢医科大病院に着く。

昨日は2カ月間隔で受けている受診日であった。主治医の受診の前に1年ぶりにMRI検査と心電図検査を受けることになっていた。MRI検査は事前に問診表を提出しなければならない。2カ月前に主治医から問診票が渡され質問事項を埋めた。それに主治医が押印して昨日持参して検査前に提出することになっていたのだが、すっかり忘れて持参しなかったので受付ではねられてしまった。

事情を話して主治医に問診票をもらって記入し、押印してもらい再度受付に提出した。
このため予定時刻が大幅に遅れてしまった。
看護士から体内の金属類の有無を再確認された。インプラントはMRIに支障がないことは前回主治医から歯科医に確認ずみであった。

4カ月前に耳鼻科関係でCT検査を受けた。外観はほとんど同じ機器であるが、MRIは磁気、CTは放射線によるので全く検査方式が異なる。当然のことなのだが、何を使用するかは患者の選択権は全くない。
さて、MRIの検査が開始された。耳に大きな音を軽減するための耳当てが装着された。

しかし検査中は絶えず大きな音が発生していた。削岩機でコンクリートを砕いているような音、振動まである。それは40分間も続いた。微動することも能わず、忍耐のほかはなかった。1年前の検査では10日ほど前に発症があったという脳梗塞の痕跡があることを聞かされた。結果的に軽微な脳梗塞だったので治療の必要はなかった。
心電図の検査を終え待合所に戻った。

1時間以上も待って主治医の診断を受けた。MRIの画像を1年前の画像と並べて説明があった。
だいたいこんな画像
こんな画像の説明もあった
血管の画像では異常は認められなかった。
「あなたの血液濃度は驚くほど濃い。水をどんどん摂取してください」と前の主治医から指導されている。脳梗塞になりやすいのだそうだ。1年前に発症したことがその証明であろう。それ以降、処方箋で血液さらさらの薬が出されている。

この血液サラサラなる薬は、くも膜下出血や怪我をした場合にはデメリットとなる説明を受けた。抜歯の場合は1週間前に服用を中止しなけらばならないとか。

今日はその薬を近くの薬局に貰いに行かなくちゃぁならない。


2017年10月17日火曜日

ハドソン&九頭竜川の奇跡


昨年の秋、私はある映画を見に行った。
題名は「ハドソン川の奇跡」。
2009年1月15日、アメリカ・ニューヨーク市で起きた航空機事故を覚えているだろうか? マンハッタン上空850メートルでエンジントラブルを起こした「USエアウェイズ1549便」は、ハドソン川に不時着水。乗客乗員全155人が無事に生還したことから、「ハドソン川の奇跡」と呼ばれ、世界中のメディアがこのニュースを報じた。

USエアウェイズ1549便は、機体が鳥の群れとぶつかる“バード・ストライク”により、両エンジンが同時に推力を失った。このような両エンジン同時のエンジントラブルはきわめて稀だという。機体の高度は下がっていくが、大都会マンハッタンに大きな空き地は存在しない。サリー機長はハドソン川への不時着水を決断する。

着水の直前、サリー機長は「こちら機長。身構えて、衝撃に備えて」と、コクピットから客室へ短い言葉で指示を出した。機体への衝撃と、機体が落下していく感覚の中、事態が飲み込めずにいた乗客たちだったが、その指示に従った。もしも事前にトラブルを伝えていたら、機内は大混乱を極めたに違いない。彼の指示ひとつをとっても、まさに的確な判断だった。

また不時着水後、なるべく早く救助してもらえることを意識して、船着き場の近くに着水させたことも、彼は計算していたのだ。

エンジントラブルが起きてから、状況を把握し、あらゆる選択肢を吟味し、決断し、着水させるまで、わずか208秒の出来事だった。それは、管制官との音声記録として残されている。鬼気迫る中での冷静な判断が、乗客乗員を救った。
155名全員救助
 この映画を彷彿とさせる飛行機事故が一昨日発生した。

機体が沈み尾翼上部が見える
15日午後3時45分ごろ、福井市小尉町の九頭竜川で、「小型飛行機が川に着陸した」と消防に通報があった。福井県警坂井署によると、小型機が川に不時着。乗っていた男性4人は約10メートル離れた岸まで泳いで脱出し、救急搬送されたが、けがはなかった。

小型機は単発のプロペラ機ビーチクラフトA36型で、福井市の医師松原六郎さん(66)が操縦し、知人で福井市と石川県加賀市の60~70代の男性3人が同乗していた。松原さんは「エンジンの不調で不時着した」と話しているという。

松原さんは14日午後、山形県で開催される学会に参加するため、3人を乗せ福井空港(福井県坂井市)を離陸。15日午後1時すぎに山形県の庄内空港から帰途に就き、給油のため新潟空港を経由して飛行中の同3時37分、中部国際空港に無線で緊急事態を宣言した。
不時着現場は川幅約280メートル、水深3~4メートル。 

不時着後、4人は自力で機体から脱出し、約10メートル離れた岸までたどり着き、福井県の防災ヘリコプターで堤防まで引き上げられた後、救急車で搬送された。機体は尾翼の一部を残して沈んだ。

同日午後1時10分に山形県の庄内空港を離陸し、午後1時43分に給油のため新潟空港に着陸。約40分後に同空港を離陸し、福井空港に向かっていた。福井空港には午後5時前に着陸予定だった。

現場はJR福井駅から北西に約12キロの田園地帯。

国土交通省は15日、この事故を重大インシデントと認定。運輸安全委員会は16日、航空事故調査官2人を現地に派遣する。

  エンジン停止状態で大惨事が起きる可能性があったが、けが人ゼロで脱出させることに成功した事故機パイロットで福井市の男性医師(66)が、状況を振り返った。向かい風を利用した着水など、冷静な対応ぶりが明らかになった。

医師は航空関連の学会に参加した後、庄内空港(山形県酒田市)を15日午後1時に離陸。給油のため新潟空港(新潟市)を経由し、福井空港(坂井市)に帰ろうと順調に飛行していた。

ところが、着陸態勢に入ると、異変が生じた。音などから「エンジンにガソリンが供給されていない感じがあった」といい、プロペラの回転が落ちて1分ほどでエンジンは停止。空港までの距離を考え、川への不時着を決断し、管制官に「川に不時着したい」と緊急事態を告げた。

その際、10年以上のフライト歴から選んだ、飛行ルートが功を奏した。日本海側から進入する際は必ず、住宅街を避け、300メートル前後の川幅がある九頭竜川の下流沿いに、福井空港の西側を回って着陸することにしていた。事故当時も同川の上空を南下しており、「離着陸時は常に墜落という最悪の事態を考えていたことが良かった」と振り返る。

追い風だった北風を意識し、風上に向けて機体を旋回。向かい風を受けて減速、降下させながら川面に近づき、水面を滑るように着水した。さらに衝撃で機内に閉じ込められるのを防ぐため、着水の直前には後部ドアを少し開けておいた。

泳ぐ距離を短くするため、左岸近くに機体を運ぶことにも成功。着水してから救命胴衣を着けて岸まで泳ぎ着くと、飛行機は間もなく沈んだ。「想定通りにできた。人に危害を負わせずに済んで、ほっとした」と胸をなで下ろした。

このパイロットもハドソン川に不時着したパイロットも、パニック時に冷静沈着な行動と的確な判断をして最善策を採った。
私にはとうていできないことである。


2017年10月16日月曜日

社長自ら「わが社に是非」と就職勧誘

戦力外通告を受けた20代前半の野球選手の姿を追ったテレビ番組を見たことがあった。
新婚夫婦でベビーが誕生する予定だという。一般募集のテストを受けその結果を待つ、本当に厳しい現実があった。

その一方、景気回復に伴い求人不足が顕在化して悪影響が出始めているという。建設業界のそれは最も厳しくなっているようだ。先だって、国立競技場の建設技術者が残業に追われてノイローゼとなって自殺したニュースがあった。

何故このような話をするのか。
実は一昨日、同時期に町会長をやったことのある、近くの地域の前町会長から1本の電話があった。電話の内容は、「ある社長から、下請けに出した業務の管理ができる人を探しているのだが・・・という相談を持ち掛けられたので、あんたの顔を思い出した。話を聞いてもらいたい」と。

この年になって就職なんて・・・と躊躇したのだが、話だけでも聞いてほしいというので、ならばいいですよと返答して昨日その元町会長宅へ赴いた。
社長は自分の経歴から話をされた。地鉄の部長をされてから出資会社の社長になられた人であった。
前町会長とは学生時代から交友があったり、その後も機械制御工学の知識があるので、電車の修繕で指導を仰いだ間柄だと説明された。

私も職歴を話した。能登線で軌道敷設、中央線で複線化工事、広島で新幹線建設等の話をした。一通り経歴を話したところ、「当社は2万㎡の舗装工事を下請けに発注したのだが、工事管理ができる人がいないので是非お願いしたい。3月までの工期だが、そのあとも関連施設の撤去工事関係の管理業務があるので、通算2年くらいの仕事になる」と。
そして、「給料は年金減額にならない限度額の28万」とおっしゃった。

「いい話だが、私はやがて75となるのでモチベーションに欠ける。私の知人で適任者がいるので当たってみましょう」と答え、その場ですぐ4歳年下の知人に電話した。
知人は、「田んぼで休まなければならないし、JAの監査員なので月に数日は仕事に行く場合があり、ちょっと無理だ」と断られた。

ならば、あんたの知り合いで適任者がいないか尋ねたところ、町内にいるのですぐ電話してみると返答があったので、しばらく電話を待った。
そして返答の電話があった。「その人も老人会の会長やほかの関係で連続した仕事は無理だ」と返答があった。そのやり取りを聞いておられた社長は、しようがないなぁという顔付だった。

定年退職して10年。好条件好待遇の話なのだが、10年若かったらなぁ・・・と。

2017年10月15日日曜日

親父が乗艦した駆逐艦の写真を見つけた!

囲炉裏端で親父が語った武勇談で、ひときわ印象に残っている話がある。
それは、虫垂炎の話であった。で、入院して手術を受ける時には手遅れで、癒着が進み治療に長期間要することになった。
時は昭和19年4月、駆逐艦「刈萱」に乗艦していたその艦が、台湾高尾港に寄港した。
寄港前から腹痛があり、寄港した直後に高尾海軍病院に担ぎ込まれた。直ちに手術が行われたが、癒着が進行し長期間の入院が必要になった。

駆逐艦は予定どおり出港した。結局、親父は当然に駆逐艦においてけぼりを食らった。

当時の高尾港岸壁
ところが、である。出港し間もない駆逐艦 は5月10日「ミ03船団」を護衛中、ルソン沖でアメリカの潜水艦コッドの発射した魚雷が2本被雷し戦没したのである。
人間の運命とは妙なるものである。盲腸炎が命を守った。

母は4才の姉と1才の私を連れて、実家のある宇出津に帰っていた。そして、海軍から戦死の通知が届いた。仏壇の前に佇み、悲痛のどん底で悲嘆にくれた。どれだけの間があったのか聞いていないが、やがて無事であることが分かった。

先日、何故か親父の乗艦していた駆逐艦の資料がないか、検索してみた。その結果、驚くほどのデータがあった。その中に米軍撮影の写真があったのである。

船腹に「カルカヤ」の文字
排水量 基準:820トン 全長 83.8m 全幅 8.08m 吃水 2.51m
主缶 ロ号艦本式缶3基

このデータを見て、「以外に小さいなぁ」という感想を持った。
これが命を懸けた親父の職場だった。
昭和50年、一通のハガキが親父の元に届いた。乗艦した戦友で生存している20人くらいのグループで組織している「刈萱会」の案内状であった。
会場は舞鶴。帰ってきて楽しそうにその時の模様を話してくれた。

数回ほどその会に参加したのだが、平成9年に逝去した。その後も刈萱会の案内があったので死去した旨のハガキを出したところ、奥様でも息子さんでも構わないから出席してくださいと案内があった。もちろん丁重にお断りした。
それから20年経た今、幹事役だった人も亡くなったであろう。
それにしても便利な世の中になったものである。親父の乗艦した駆逐艦の写真に出会うことができたのである。



2017年10月14日土曜日

県科学の夢絵画展で孫の姉弟2人が金賞受賞

昨日から県地場産業振興センターにおいて、石川県発明工夫展と科学の夢絵画展が始まった。去年まで毎年最高賞を受賞していた吾が町内の松平倖喜君は、高校生になったたため出品されていなかったのが寂しい。


学年ごとに出品されている
うちの孫も毎年出品していたが、高校と中学に進学したので出品はなし。学校の先生によって出品が多かったり全くなかったりと大きな差がある。毎年優秀校に選ばれていた千坂小学校は今回出品なし。指導していた先生が転校されたのである。転校された木曳野小学校が優秀校に選ばれていた。素晴らしい指導力に感心するばかりである。

上の写真で、壁には科学の夢絵画展の出品作が展示されているのがわかる。

金賞・銀賞・銅賞の順に掲出されている
金賞は10点が受賞作品であった。今回、ここを訪れたのにはわけがあった。何と小1の孫(男)と小4の孫(女)の姉弟二人が揃って金賞を受賞したと聞いたので、その作品を見に行ったのであった。


幼稚園児の頃から昆虫や恐竜に強い感心を持っていたのだが、描いた絵は虫かごに匂いの発生する物体で昆虫を虫かごに誘い入れるという発想の絵だった。考え抜いて絵にした努力が見えた。


小4の姉ちゃんが描いた絵は交通事故防止の道具を上手く表現していた。
父母の喜びは当然だが、美川の祖父ちゃんと祖母ちゃんは明日の表彰式に出席したいと大喜びと聞く。
10点の金賞のうち、姉弟揃って金賞受賞の快挙はジジババへの何よりのプレゼントであった。

2017年10月13日金曜日

金沢都ホテルがいよいよ消える

金沢駅前に54年間にわたり存在感を示していた金沢都ホテルが、11月から取り壊されるという。昭和38年に落成し、金沢駅前のイメージを一新したこのビルは、金沢の近代化のシンボルとして市民から親しまれた。


私が高校を卒業したのが昭和36年。その2年後にこのビルが完成した。
県外に就職して帰省時に金沢に立ち寄った時、このビルを見て金沢の変わりように眼をみはったものだった。
このビルが着工される前の状況は、イメージとして思い出すことは困難だったのだが、昭和30年代前半と思われる当時の写真を目にすることが出来た。

都ホテルができる前の駅前
別院の屋根がひときわ高く存在感があるが、この写真の見える範囲にはビルらしい建物といえば、武蔵の丸越と思われるビルがかすかに見えるだけ。
昭和41年、県外就職の3人が久しぶりに金沢で再会した。その時、都ホテルの7階レストランで食事して楽しんだことが思い出される。

昭和41年24才
ビル跡地にはホテル系のビルが建設されるという。
東京オリンピック開催の年の3年後に完成するという。どんな風景が生まれるのか楽しみである。