五年にわたる発掘調査を終えた室町時代の遺跡「松波城庭園跡」(能登町松波)で25日、町教委による発掘成果についての現地説明会があった。
2016年度からの調査では、庭園が15世紀前半から存在する可能性が高く、能登地方の庭園跡としては最も古いことが分かった。説明会では、発掘に携わった町教委の新出直典さん(47)が、参加した専門家や地元住民に「規格性のある建物や門の配置がされていると分かった」「武家の庭園では、15世紀前半の発掘事例はあまりない」などと遺跡を前に解説した。 参加した金沢市埋蔵文化財センター職員の鏡百恵さん(24)は「当時の人々が生活を楽しむ様子が、遺構を通して見えるのはすごいことだと思う。想像力を膨らませると情景が浮かぶ」と話した。
ということで、松波城について調べて見た。
松波城は文明六年(1474)に能登守護・畠山義統の三男・義智により築かれた。子孫は代々松波城主を務め、五代目の義龍のときに松波氏を称した。
天正五年(1577)上杉謙信の能登侵攻の際、当主であった義龍の子・義親は救援のために七尾城に向かうが、落城の免れがたいのをみて松波城に戻って守りを固めた。まもなく、上杉家臣・長沢光国が兵を率いて松波城を攻撃した。義親は奮戦したものの、最後は自刃した。光国が城内に踏み入ったところ、城明け渡しのように掃き清められていたため感嘆したという。この後、城は焼き払われたが、焼け残った搦手門は万福寺の山門に移築されたと伝わる。
大手門跡 |
本丸跡 |
輪島や曽々木あたりには城跡はない。やはり富山湾からやってくる敵襲に備える城が必要だったと考えられる。穴水城の有無については全く知識が無い。
0 件のコメント:
コメントを投稿