2023年8月20日日曜日

地元民が意外と知らない超一流の美術品の数々が収蔵されている奥能登の美術館!

能登に生まれ育った自分もそうだったが、能登に素晴らしい美術品が揃った美術館があることを全く知らなかった。名称は南惣美術館という。幕府の直轄領庄屋だった家主が代々美術品のコレクションに努めてきたのだが、それらを一般公開したのは、まだ歴史は浅い。初めて訪れたのは時国家を訪れたついでに、そこから2kmほど西方に位置する南惣に行った。昭和60年頃だったか。初めてそこに行って見て、目を疑った。俵屋宗達、長谷川等伯、雪舟等々見事な作品群に心を奪われた。なんでここにこのような作品が揃っているのか不思議だった。

この正門に入るとお土産品が並んでいる

お土産品売り場

この本宅横に美術館が新しく建てられた

北前船の収益もあったというから、金に糸目をつけずに買い求めたと推定できる。

黒川の中谷家も天領庄屋だが、ここは武家屋敷となんら引けを取らない。天領庄屋というポストが羨ましい。

2023年8月19日土曜日

山より街のほうが・・・

クマにイノシシ、シカにサル、どうしてこんなに人里に出てくるようになったのだろう。山の手入れがされなくなったとか、エサが不作だとか色々と原因が語られるのだが、その解消策はといえば「皆無」に等しい。昨日もサル出没の記事があった。

場所は金沢市内のほぼ中心街的な住宅地。


17日午前7時ごろ、金沢市小立野4丁目にある小立野小学校の前で、ランニング中の人が1匹のサルを目撃。サルは近くの住宅街に姿を消した。
その3時間半後、今度は小立野3丁目の善光寺坂付近で再び目撃され、その4時間後付近をパトロール中だった警察官も住宅の塀に登るサルを目撃した。

逃げ足は極めて素早い

そして午後6時過ぎ、今度は三口新町の公園に現れたサル。隣の神社の中へと逃げていった。目撃したのは、公園の目の前にあるこども園の保護者だという。

何といっても人里はいたるところにエサが豊富だから、一旦味を覚えたサルは山には帰らなくなる。そういえば、昨年は競馬場にも表れた。

競馬場に現れたサル

クマも金腐川を行ったり来たりしていたことがあった。森本駅付近の民家に潜んでいて大騒ぎしたこともあった。法律で殺しさずに森に帰すのが決まりとは言うが、里の味を覚えたサルにしろクマにしろ、また必ずやってくる。かわいそうだが、射殺が最も良策だと思われるが・・・

2023年8月18日金曜日

同期の桜

昭和36年3月の、卒業式が9日だというのに1日、採用先から2日に出頭せよとの通知を受け、循環急行しろがね号に乗車して岐阜市にあった就職先に向かった。翌日、勤務先に出頭して、採用者が20名だと分かった。7月、その20人の中で最も早い転勤者になり、市ノ瀬にあった小木工事区へ転勤命令が出たので、市内のすし屋で送別会をやってもらった。そしてこれを機に「同期会」が発足した。

そして平成28年、久しぶりに同期会が岐阜市長良川で開催され、鵜飼見物しながら歓談した。

鵜飼舟予約者が押し寄せた

長良川の向こう側に球場が見えるが、ここで課対抗のソフトボール大会が開催された。また、毎年7月4週土曜日には岐阜日日、次週には中日花火大会が開催された。そんな思い出がいっぱい詰まった同期会だった。

20名だったメンバーが8名に減少した

そしてまた、今年5月に1名が亡くなったと連絡があった。幹事からは電話でもう一度同期会を開催すると連絡があった。富山在住のメンバーが体調を崩して入院中だという。淋しい同期会になるかもしれないが、それまで元気にいなければ!

2023年8月17日木曜日

名舟、沖波・・・在所の祭りの思い出がよぎる

7月31日~8月1日名舟、8月14~15日沖波の祭りが新聞記事にあった。能登一円の祭りはあばれ祭りで幕が切って落とされ、4カ月に渡り各地で開催される。

名舟大祭 キリコが4基も出されることに驚いた

実家のあった石井の祭りは7月26~27日に開催された。そのころは梅雨が明けいつも好天続きだった。キリコは在所の坂を上った付近から2軒目と、そこから400mくらい離れたところがスタート地点。そこから諏訪神社に向かって担いでいき、2台のキリコが並んで諏訪神社神主の祝詞奏上後に神輿を先頭に火の宮まで巡行する。この神社で五穀豊穣の祝詞をあげるのだが、その間、一升瓶が担ぎ手に次々とわたっていく。そのうち酔っ払いが騒動を起こす・・・というのがいつものパターンだった。それでも、二人が組んで太鼓を打ち鳴らす見事な共演には、いつか自分もあんな太鼓を打ちたいと思った。

沖波大漁祭り
海の中を担ぎまわるのはここだけか?
祭りを執行するためには、キリコの胴張り、組立、終わってからの分解片付けがある。祭りには大変な労力がいるため、最近では担ぎ手不足となっているところが多い。青壮年団員が少なくなってやむを得ず省力化でキリコは担がないで、タイヤを付けて引っ張る在所も増えているようだ。
能登のキリコ祭りも開催そのものが危ぶまれている。

2023年8月16日水曜日

ファミリーヒストリー番組制作スタッフの執念が実を結んだ

一昨日になるが、NHKファミリーヒストリーを見て、番組制作の強い執念と草刈正雄の生い立ちを知り、また、母から父親は米軍兵士で朝鮮動乱で亡くなったと教えられたという経緯を知った。
日本人の女を孕ませ知らんぷりで帰国する兵士は沢山いたことだろう。戦勝国の軍人だから当然だという考えなのかも知れない。

草刈正雄

草刈正雄の母も捨てられて父は米国へ帰国した。NHKは草刈正雄に番組制作を何度か打診したが断られていたという。そのうち本人の承諾を得て制作に着手したが、父の名前と出身地の州名、兵士の父親の職業が郵便配達員という極めて少ない情報だけを頼りに、NHKスタッフはアメリカに行って調査を始めたが、当然ながら難航を極めたという。しかし、NHKの執念が身を結ぶ。生家と一族が探り当てられたのである。父親の実の姉が97歳だが、弟が日本で健在だと知り、急に元気が回復したという。

父の写真も手に入れることができた

そうした記録VTRを草刈正雄は時々目を閉じ涙ぐんで見ていた。アメリカに住む姉や甥たちも喜び、取材に協力的になった。97歳の姉がズーっと気にかけていたが、調査ヒヤリングに訪れたスタッフに会うことができて大喜びしたという。

そんないきさつを眺めていた草刈は時々目にハンカチを当てた。そして本人が家族と会いに渡米した。97歳の叔母と抱き合って喜んだ。極貧だった母子家庭の母の努力が実った!

ファミリーヒストリーの中で最も感動した番組だった。

2023年8月15日火曜日

御年92歳美声変わらず!

先月のことだが、BSのチャンネルを回していたら、エエッ!と思った。引退してもう10年以上も過ぎて「二葉百合子ショー」だと?
現在92歳だという二葉百合子は、10年前の現役時代とちっとも変わらない姿に目を瞠った。そして、あの「岸壁の母」を歌った。少しも変わらない張りのある声だった。

現役時代と何ら変わらない美声だった

引退は80歳だったという。引退して、「ちょっと早かったかな」と思ったという。
6月にシニアクラブの旅行で富来に行った。その時、岸壁の母記念碑を見てきた。

増穂が浦に建立された記念碑

この記念碑は町の尽力で立派な記念碑が建てられた。流行歌、映画「岸壁の母」のモデルとなったのは、富来の出身者端野いせさん(1899年9月15日 - 1981年7月1日)である。
もう亡くなって12年ほど経ったウチの母は、旧盆で方々から集まった子や孫20人余りで宴会をすると、必ずこの岸壁の母を歌った。母の子を思う気持ちを表したかったのだろう。

舞鶴市引上げ記念公園にある「岸壁の母」記念碑

端野いせさんの経歴
明治32年(1899年)9月15日、石川県羽咋郡富来町(現在の志賀町)に生まれ、函館に青函連絡船乗組みの夫、端野清松と一人娘とともに居住していたが、昭和5年(1930年)頃に夫と娘を相次いで亡くし、家主で函館の資産家であった橋本家から新二を養子にもらい昭和6年(1931年)に上京する。新二は立教大学を中退し、高等商船学校を目指すが、軍人を志し昭和19年(1944年)満洲国に渡り関東軍石頭予備士官学校に入学、同年ソ連軍の攻撃を受けて中国牡丹江にて行方不明となる。

終戦後、いせは東京都大森に居住しながら新二の生存と復員を信じて昭和25年(1950年)1月の引揚船初入港から以後6年間、ソ連ナホトカ港からの引揚船が入港する度に舞鶴の岸壁に立つ。昭和29年(1954年)9月には厚生省の死亡理由認定書が発行され、昭和31年には東京都知事が昭和20年(1945年)8月15日牡丹江にて戦死との戦死告知書(舞鶴引揚記念館に保存)を発行。
しかしながら、帰還を待たれていた子・新二(1926年 - )は戦後も生存していたとされる。それが明らかになったのは、母の没後、平成12年(2000年)8月のことであった。


2023年8月14日月曜日

おじいちゃんの愛した孫の名前が刻まれた墓石

昨日はかほく市にある墓地と卯辰山墓地公園にある墓へお盆の墓参りをした。かほく市にある墓地は10年ほど前に能登の実家の墓を、かほく市が造成した墓地公園の一角を購入して移転した。兄弟姉妹が木津、鶴来に居住しているので移転したので、近くなったと喜んでもらえた。卯辰山墓地公園の墓は戦死した女房殿の親父の墓も能登にあったことから、分譲時に申し込みして当選したので、そこに墓を設けた。道路網が完備して随分便利になった。

今日は朝5時半に家を出発、金石と美川の墓参をした。金石は娘婿の実家の墓、美川の墓は去年亡くなられた娘婿殿の父親の墓。今年建立された墓は美川IC出口にある町営墓地なのだが、LINEの写真を頼りにたどり着いた。その墓は一般的な墓とかけ離れた感覚で建立された。

後列の「仁」と書かれた墓 

その墓石には、「仁」と一文字が掘られていた。孫は中学1年だが、幼稚園年少の頃から亡くなられる数カ月前まで、毎週木曜日に美川から瑞樹団地まで顔を見に奥さんと二人で通われていた。おじいちゃんの孫のかわいがり方が素晴らしかった。孫もそんなおじいちゃんによくなついていた。
葬儀の日、お坊さんが在りし日のおじいちゃんの思い出話を語り始められたのだが、途中、大声で泣き始めた。よほど悲しかったのだろう。

そんな思い出をかみしめながら今日の墓参を終えた。