昭和44年9月、新幹線岡山~博多間建設要員として広島に赴任したのだが、広島市内の事務所で2年半ほど経過したら宮島にほど近い大野町に設置された事務所に転勤することになった。そこの同僚たちと能登半島をドライブすることになり、緑剛崎や曽々木を見物した。その時のアルバムを見ていたら、もう2度と見ることができなくなった風景があった。
それは曽々木の窓岩で同僚と写した写真である。
窓岩は思ったより大きかった |
崩壊の写真を見てもどこが壊れてどこが残ったのか分からない |
吾々が座っていた岩は、中央の岩の頂上部なのだろうか。どうもそうとしか思えない。先日、弟が県に勤務する長男と一緒に被災状況の視察で写した写真を見せてもらったが、時国家にしても窓岩にしても本当に悔しい思いが湧いた。
思い出だけは大切にとっておきたい。
0 件のコメント:
コメントを投稿