娘としては東京のある女子大を本命としていた。なので受験の際は東京まで同伴したが、幸か不幸か「不合格」だった。
原因は富士山にある。列車から富士山が見えると不合格というジンクスがあるという。それが実にくっきりと見えたのだ。すぐ指を折るとジンクスは消えるともいう。
このころ城郭全域を大学のキャンパスにするのは大変珍しく、金沢大学以外ではドイツのハイデルベルク大学ぐらいであったという。
歴史を辿ると、昭和24年(1949)に金沢大学の丸の内キャンパスとなり、「お城の大学」として親しまれていた。その後金沢大学は、丸の内のほか、小立野地区に点在してい学部等と併せて角間地区に総合移転することが決定し、平成元年(1989)の法学部・経済学部・文学部の移転を皮切りに、1995年には「お城のキャンパス」は完全に姿を消した。
そして、もう後がない金大の合格発表だった。
歴史を辿ると、昭和24年(1949)に金沢大学の丸の内キャンパスとなり、「お城の大学」として親しまれていた。その後金沢大学は、丸の内のほか、小立野地区に点在してい学部等と併せて角間地区に総合移転することが決定し、平成元年(1989)の法学部・経済学部・文学部の移転を皮切りに、1995年には「お城のキャンパス」は完全に姿を消した。
さて、本題に戻ろう。恐る々々掲示板を覗き込んだ。すると娘の番号が目に入った。幸か不幸か合格したのだ。
それから時は流れて、受験した本人は教員として多忙な毎日を送っている。
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