その一行とは 日本各地への10回の測量旅行を通して日本の実測図を作った伊能忠敬の測量隊である。1803年2月、4次測量として江戸を出発。東海を経て北陸沿岸に至り、敦賀(福井)から福井、加賀、金沢を通って能登半島を測量し、富山に抜けている。10月に江戸に戻り着いた。
旅籠「すみよし屋」の建物 |
しかし、加賀では、地元の案内人に地名や家数などを尋ねても、回答を拒まれた。これは、加賀藩の情報が他に漏れるのを恐れたためである。そのため忠敬は藩の抵抗にあいながらの測量となった。加賀を出て、7月5日からは能登半島を二手に分かれて測量した。
その伊能忠敬の足跡を探る伊能忠敬研究会県支部が、忠敬が北陸を測量した際に宿泊した宿屋「住吉屋」があった金沢市尾張町の一角に、その功績を示すパネルを設置したという。来年、忠敬の没後200年を迎えることを記念したもので、支部代表の河崎倫代さん(68)は「設置を機に、忠敬についての学びを深めてほしい」と話している。
同支部によると、忠敬は8月17日夜、隊員7人と、現在の金沢市金石西の本龍寺境内で天文測量を行い、翌18日、尾張町まで歩いて測量を行い、住吉屋に宿泊。その後、宝達志水町今浜まで歩き、二手に分かれ、外浦を弟子の3人が、内浦を忠敬含め5人が測量して歩いた。能登半島の海岸線は形が複雑なため、測量には時間がかかり、忠敬は県内に37泊している。
加賀藩でのエピソードもあるという。当時、同藩は、測量隊が村高や家数などを細かく調査する行動を「隠密(スパイ)がましき」と疑っており、忠敬の「元農民・現浪人」という身分もあいまって、測量は困難を極めた。通常は、竹ざお(約5メートル)の先に紙や布を短冊状につるした梵天(ぼんてん)と呼ばれる測量器具を使ったが、加賀藩に目をつけられないよう、梵天を使わず、主に歩幅を数えて測量を行ったとされる。
森忠商店の店主、森麻喜子さん(62)は「この場所に忠敬が泊まっていたとは、最近まで知らず驚き。尊敬に値する人物なので、皆さんに功績を知ってもらえたら」と話した。
加賀藩でのエピソードもあるという。当時、同藩は、測量隊が村高や家数などを細かく調査する行動を「隠密(スパイ)がましき」と疑っており、忠敬の「元農民・現浪人」という身分もあいまって、測量は困難を極めた。通常は、竹ざお(約5メートル)の先に紙や布を短冊状につるした梵天(ぼんてん)と呼ばれる測量器具を使ったが、加賀藩に目をつけられないよう、梵天を使わず、主に歩幅を数えて測量を行ったとされる。
森忠商店の店主、森麻喜子さん(62)は「この場所に忠敬が泊まっていたとは、最近まで知らず驚き。尊敬に値する人物なので、皆さんに功績を知ってもらえたら」と話した。
55歳で酒造業の主から隠居して天文学を志したという伊能忠敬。5年の研鑽を積み蝦夷から測量に取り掛かった。それからおよそ20年間日本全国を徒歩で測量し、ついに 日本最初の実測地図「大日本沿海輿地(よち)全図」を作製した。全図は忠敬死後の1821年に完成し、幕府に提出された。
この「でかさ」は圧巻! |
業務上、測量作業は嫌というほどやったことがあるが、この人の功績は神業に近いと実感する。グーグルの地図と比較しても誤差は殆どないという。その子孫が国鉄建設局に勤務しておられたと記憶している。
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