2017年12月1日金曜日

新幹線車両とスバル360はゼロ戦の製造ノウハウ

今朝の朝刊に昭和43年(1968)に製造されたスバル360で、シベリアを横断して
故郷のハンガリーまでドライブした外国人の記事があった。


40数年前に製造されたスバルがシベリア横断して、その走りに感銘を受けてさらにアフリカの砂漠を横断する計画だという。随行車が一緒に走るとは言うものの、スバルのデザインや機能に一目ぼれした外国人の行動力に感動を覚えた。

スバル360といえば、私が高校生だった昭和33年に発売され、爆発的に売れた。
昭和30年(1955)、戦後間もないこのとき、自家用車を持つことは、庶民にとって夢のまた夢のような話であった。1台およそ100万円、それは平均的なサラリーマンの年収5年分、住宅を買うよりも高かった。当時の平均月収数千円の庶民には買えるものではなく、自家用車は高所得者層の象徴でもあった。当時はクルマと言っても2人の乗りのものや、1人乗りのオート3輪であり、庶民の足はもっぱら自転車だったのだ。

「360cc」、どれくらいの量か想像できるだろうか。およそ牛乳瓶(180cc)2本分。それはバイク並みのエンジンほどで、2人乗りのクルマを走行させるのが限界の排気量であったという。
この排気量で、大人4人乗車可能で、まだ国道の9割が舗装が不十分な日本の悪路を走行でき、さらには庶民の手に届く金額のクルマを作ろう。そうした志をもとに立ち上がったのが旧中島飛行機、のちの富士重工業(現 SUBARU)の技術者たちであった。

時を同じくして東京・大阪3時間の新幹線構想が具体化し、200km/hで走行可能な新幹線車両を開発することになった。鉄道技術研究所に旧中島飛行機の技術者がここにもいたのである。

さて、再びスバルだが、車体の重量を350kgに抑えるために、鉄板を0.6mmの薄さのものの採用を試みたが、平面部分の多い従来のフレーム構造では十分な強度を得られない。そこで、ボディとフレームを一体化させ、剛性を高めた「モノコック構造」を導入。ボディに丸みを帯びさせた卵型にすると驚くほど強度が上がり、補強部材を使う必要もないために軽量化に一役買った。

屋根については、4辺の枠があればモノコックの強度を保つことができるため、プラスチック素材を、さらに窓にはアクリルを使用し、目標の350kgに近い数値を達成した。

さらにモノコック構造は軽量化だけがメリットではない。余分なフレームがないため車内空間の広さも確保でき、またフレームとボディが一体化しているため振動も起きにくいのだ。こうして目標であった大人4人乗りが快適な乗り心地で実現した。


現在のクルマのほとんどがこの構造を取り入れているが、「日本初」のモノコックボディ車はスバル360である。


一方、R360マツダクーペは、マツダ(当時は東洋工業)が初めて製造した4輪乗用車である。R360が登場したのは1960年。軽自動車ではスバル360が市場を席巻していた。スバル360と同じくリアにエンジンを搭載して後輪を駆動するRR方式を採用していたが、R360は当時としては画期的なエンジンにアルミ合金製の4サイクルOHVを搭載。価格は30万円で、当時のスバル360よりも安く設定されていた。2ドアで4人乗りではあるが、後席は非常に狭く、子供がやっと乗車できるスペースしかなかった。 

軽量化が随所に図られ、広い面積を持つサイドウィンドウとリアウィンドウには、ガラスではなくアクリル製が採用されていた。また、軽自動車としては初めてのオートマチックミッションが搭載するモデルも設定されていた。戦後、日本車として初めてクーペを名乗った車でもある。


昭和36年夏、私は能登線建設のため宇出津駅構内で仕事をしていた。その時、宇出津駅構内手の職員がこのR360クーペに乗って私の前に停車した。「いくらした?」と聞いた。「中古なのだが15万円だった」。
当時の私の給料は1万円丁度。羨望の眼差しでそれを眺めた。





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