2013年5月11日土曜日

中山道中津川宿(その10)木曽駒ヶ岳の頂上に立つ

昭和41年8月上旬、先輩から木曽駒に登らないかと誘いがあったので、2900m級の本格的な登山にチャレンジすることにした。
当時は伊那谷から千畳敷までのロープウエイはなかったし、中津川からは当然木曽谷側からの登山であった。
早朝中津川駅から列車に乗り、木曽福島駅前からバスに乗り継ぎ、30分ほど乗車して登山道入り口に到着した。そこから登山を開始し、樹林を抜けると尾根に出て素晴らしいパノラマが広がり、御嶽山や乗鞍岳が一望できた。しばし素晴らしい景色を堪能し感動した。
中央アルプス(太平洋側からの眺め)
♪♪木曽の御嶽さんはなんじゃらほい
木曽駒が近づいてきたころ、澄み切った青空に雲が出てきて今にも雨が降りそうな天候に変わった。
木曽駒頂上に立つ
眺望絶佳を期待していたが、あいにくの雲と霧に遮られて視界は残念ながら不良であった。
そこを後にして宝剣岳を目指した。
千畳敷カールと宝剣岳
後方に宝剣岳、足下は千畳敷カールの奈落の底に続く
宝剣岳は木曽駒より標高は若干低いが登山道は険しく、遭難が発生する場所として有名である。
宝剣岳の頂上は定員1名のきわめて狭いスペース
絶景かな!と言いたかったが

頂上はスリル満点、転落すると300m下まで一気に落下することになる。
暫く休憩して帰路につくことにした。下山ルートは上松を目指すことにした。登山は息せき切って難儀するが、下山もまた大変である。登山の疲労が膝に溜まって踏ん張りが利かなくなって下り坂が苦痛になる。休憩したいが最終バスがなくなるとこれまた面倒なことになるので耐えに耐えた。
下山の辛い思いを味わって登山はもうしないと思ったものだが、後に富士山、立山縦走、白山に登山することになる。


2013年5月8日水曜日

中山道中津川宿(その9)国鉄合理化の先兵

工事区のすぐ近くに中津川機関区の機関庫があった。昭和43年に名古屋・中津川間が複線電化されたが、昭和48年まで中津川・塩尻間が複線電化されるまで、中津川機関区に34両のSLが配備されこのSLが塩尻までの貨物輸送を担った。
SL1両に30人の人員が必要とされた。34両配備された機関区にはおよそ1000人の職員が所属していた。国鉄近代化・合理化は輸送力増強と人員削減が大きな柱であった。動力車労組、国鉄労組は反合理化闘争に全力を傾注していった。
工事局職員は国労傘下にあったが、業務そのものが近代化・合理化の目的のためにあった。
地方本部から工事局分会に闘争指令があるものの、せいぜい本局勤務職員が超勤拒否をする程度で現場職員にあっては全く組合運動に参加するものはなく、むしろ合理化の先兵としてプライドを持って「ヨンサントオ」を合言葉にして業務に注力した。云ってみれば組合は御用組合そのものであった。
事務所前の空き地でキャッチボール。建物は中津川機関区の機関庫
機関区勤務の職員がこの建物の土手の上に立って、やがて暮れゆく空に向かって「夜空のトランペット」を高らかに吹奏していた情景が思い出される。1000人の職員と家族はその後どのような道を歩んだのだろうか。

機関庫前の当時のD51
北陸線では杉津峠の急坂路のため敦賀、今庄に多くのSLが配置されて機関区がおかれ、電化まで大勢の国鉄職員の町として栄えていた。しかし、北陸トンネル開通とともにSLが不要となって国鉄職員とその家族で栄えていた町がすたれていった。

機関庫の線路側
平成9年、33年ぶりに当地に訪れた。この広大な機関区跡地を清算事業団で宅地開発をすることになり現場調査を行った。既に機関庫は解体され雑草が生い茂った荒れ地と化していた。
現在では住宅が立ち並び、昔日の面影すら残っていない。煙と気笛と連結音、排気音が入り混じった喧噪とした風景が妙に恋しい。










2013年5月7日火曜日

中山道中津川宿(その8)オールグリーン役満


41年度初頭に着工された複線化工事は在来線に腹付する一般的な方法と異なり、下り線単独で曲線半径を大きくし、スピードアップが可能となるよう別ルートとする線形が採用された。
当時、その計画さえもなかった中央自動車道中津川IC付近に千旦林トンネル(L≒350m)が施工されることになった。
千旦林トンネル入り口で助役の指導
写真から判断すると、上部半断面先進掘削工法である。本工法は比較的地質が良好な単線トンネル掘削に採用されるが、これまで導坑先進上部半断面掘削工法で木製に依存していた支保工が画期的に鋼製が採用され、大断面掘削が可能となった。
多治見工事区で貫通式に参列して私もいつかはトンネルを担当したいと思ったが、あいにく2年先輩が担当者となった。

トンネル入り口付近の坑外設備
切羽(掘削先端部)の状況
この7年後、ようやく念願が叶いトンネル担当者となったが、この時と比較すると技術的な進歩に著しいものがあった。
しばらくして本トンネルの覆工コンクリート初打設を祝い、盛大な祝宴が開かれることになった。
一流の料亭で芸者をあげて祝宴

この後、麻雀大会が開かれ、オールグリーンという役満の手に振り込んで大負けを喫した苦い思い出がある。


2013年5月4日土曜日

中山道中津川宿(その7)土石流で木曽谷一帯に甚大な被害発生

昭和41年(1966年) 6月24日、木曽谷一帯に集中豪雨による土石流が発生して甚大な被害があった。三留野で連続雨量170.0mm。重傷1名、軽傷9名、住家全壊38戸、半壊浸水111戸、公共土木費が4億4,165万円、その他鉄道等を含む総被害額12億4,953万円。神戸沢では土石流が発生し神戸集落に被害を及ぼした。

中津川においても前日夕刻から雨足が強くなり、工事区職員全員が雨合羽を纏い風雨をついて現場巡回に出た。特に橋りょう掘削部分の仮土留締切工に異常がないか入念に確認していった。

翌日風雨が治まったので再度巡回に行った。盛土した法面が数か所流出していたので請負業者に直ちに修復するよう指示した。

25日未明、中津川市内国道19号線を走行中の牛乳配達車が土留め壁の倒壊により運転手が即死する事故が発生した。

三留野駅周辺も土石流に巻き込まれ鉄道が寸断された。
流出法面修復中
この土石流で三留野構内が埋まっている状況を確認しに行こうと話がまとまり、職員4人が単車2台相乗りして現場に行くことになった。

駅構内の被害状況を写した写真が見当たらなくて残念だが、急峻な谷合から流出した土石が駅構内を埋め、国道を横断して木曽川に至るまで家屋の残骸とともに残留していた。
誰かが折角ここまできたのだから妻籠から大平峠を越えて飯田まで行こうと提案した。即実行に移すことになった。
飯田市に到着して天竜峡を経由して塩尻に向かった
大平峠の頂上付近で食べた五平餅の味が今でも忘れられない。
飯田駅前で休憩
飯田市手前の発電所で一休み
天竜峡を見物して帰路をどうするか迷った。天竜川沿いの道路を走り豊橋に出て岡崎から多治見を経由して帰るのはどうかと考えたが、余りにも距離が長すぎるため辰野、塩尻に出て国道19号線を走ることに決定した。
当時は100%砂利道。土ぼこりをかぶり激しく振動する走行に耐え、中央アルプスの麓をぐるり一周する結果となった。帰着しても単車の振動が全身に残り大ツーリングの余韻がなかなか消えなかった。

2013年5月3日金曜日

中山道中津川宿(その6)職場ムードの一新

4月1日付で区長と助役が交代し、新たに2名の職員が加わったことで職場の雰囲気ががらりと変わった。新区長は豪放磊落、新助役は部下にとって親しみやすいタイプであった。
このため職員間のコミュニケーションが格段に変化した。
職場ムードが一新された
私の業務も二人の部下が育ってきて負担が軽減された。このため日曜日が休めるようになった。4月中旬、先輩が富士見台に行かないかと誘ってくれた。運が良ければ富士山が見えるところだというので出かけた。
富士見台高原位置図
ふもとまで単車に相乗りして登山道から2時間ほど登った。そこは広大な景色があって何と素晴らしいところだと感激した。
富士見台高原(ネット検索データより)
富士山が見えた!
誰に写してもらったのだろう
山の素晴らしさにすっかり魅せられた。この夏、木曽駒ヶ岳登山のきっかけとなった。
帰りに馬篭宿藤村記念館に立ち寄った
昨年と様変わりした休日の楽しさを満喫した1日であった。

2013年5月2日木曜日

中山道中津川宿(その5)ウマが合わない人間関係

不眠不休のような毎日が続いて約1年となる昭和40年初冬を迎えた。
その結果、担当していた1.6kmの路盤工事も名古屋方起点から美乃坂本駅までの約1kmの工事が進捗して軌道工事が開始された。工事区長から「君は能登線で軌道工事を担当していたので
馴れたところで路盤工事のほか軌道工事も担当せよ」と指示があった。
請負業者現場代理人が岐阜工事局OBを伴い挨拶に訪れた。能登線の例のごとしである。
現場代理人が軌道中心測量をしてもらいたいと願い出た。私は請負契約書の条文を示し、工事に必要な測量は請負者が施工することになっている。よって請負者側でやるべきで当局は一切関知しない。と突き放した。
数日後、区長が「固いこと言わんとやってやれ」と指示した。この忙しいときに業者の代行はできませんと抵抗した。が、「手元を出させるから頼むよ」と猫なで声で頼まれしぶしぶ応じることにした。
恵那山に初冠雪

この区長と上司である助役との人間関係がぎくしゃくしていた。区長が後ろ向きで座っている助役の背に向けていびり言葉を連発していた。工事管理要領の一つ一つを取り上げ「何やってんだ」と繰り返した。
助役はおとなしい柔和な性格。罵詈雑言によく耐えていると感心するくらいであった。反面、決断力に乏しく部下として頼りがいがない上司に思えた。大学の研究室が似合う人柄だった。
だがある日、罵詈雑言が続く途中、いきなりくるりと向き直り「馬鹿野郎」と叫んだ。それ以降、いびりが少なくなった。
区長は主管課担当係長に対してもルーズな工事発注を非難し、喧嘩腰で電話する日が多くなった。
昭和41年が明け私は23歳となっていた。
中津川にはパチンコ屋、飲み屋がひしめいていた。流行のダンスホールもあった。行きつけのバーもできた。ギターを持った流しのアンちゃんに1曲100円でリクエストしたものである。
4月になり区長、助役が入れ代りトンネル工事が発注されて技術掛2名が増員された。そのうちの一人が能登線に着任早々からお世話になった1年先輩であった。
能登線の思い出話に花が咲く
軌道工事も進捗して使用開始の秒読みが始まった。
ほぼ完成した軌道

最後の追い込み作業・美乃坂本構内名古屋方
大動員しての線路切換作業状況(美乃坂本構内塩尻方)

線路切換により恵那・美乃坂本間が複線化された。





2013年4月27日土曜日

中山道中津川宿(その4)超繁忙対策

国鉄は第2次5か年計画により近代化を推進してきたが、資金不足のため昭和39年度で打ち切られた。そこで昭和40年度から新たに多額の資金を借入れして、昭和43年10月を目標とした「第三次長期計画」を策定し、輸送力増強を推進して国鉄の屋台骨を再構築することになった。
部内では「ヨンサントオ」と呼称され、吾々技術系職員にも大きな影響を及ぼした。
日本海海戦の開戦にあたり、東郷連合艦隊司令長官が隊員に訓令した「皇国の興廃この一戦にあり。各員一層奮励努力せよ。」の同義語として、あらゆる機会に「ヨンサントオ」と檄が飛ばされ尻に鞭が当てられた。
国内公共事業や民間設備投資が年々増加の一途をたどり、建設技術系新卒者の需要数が供給数を大幅に上回る現象が顕著となった。国鉄にあっても近代化・合理化を図り輸送力増強を急ぐ必要があった。
このような情勢により、国鉄の建設事業費が飛躍的な伸長をした結果、人員不足が慢性的となって吾々にしわ寄せされていた。毎月100時間を超える超勤が当たり前になったのである。
そんな中、岐阜工事局でも昭和40年新卒者が大量採用された。応募が少ないため中々採用予定数に至らず、二次三次と追加募集され、人事担当者は九州地方の高校にまで募集に出かけた。
4月早々、新採者たちは現場勤務を命じられた。
中津川工事区でも1名が配属され、私の部下となった。
新採者の指導
人員強化のほか業務改善策として、個人的な技術力に依存していた構造物設計を、標準図として統一されつつあった。外部委託も導入され始め、コンサルタント業が脚光を浴びてきた。
国、地方自治体においても設計業務の外部委託導入が始まった。
後年、道路や河川工作物、上下水道、都市計画関係業務等の全てがコンサルタントに依存するようになってしまった。その結果、国鉄も含め役所の建設技術者の技術力が失われてしまう弊害が発生した。
現場調査測量をして詳細設計ができる技術者は、現在では存在するところがなくなった。
コンサルが設計した図面が適正なのか判断できない幹部が、国や地方公共団体に大勢いるのはそういう職場環境が失われた結果の事実である。
また、工事予定価格を算定する積算業務も、個人的に現場経験を積み上げて作業種別ごとに就労人員を査定する能力を鍛えてきた。しかし、個人差があり時間もかかった。増大する業務を消化するためには、積算基準書の整備を行い効率化を図る必要があった。5,6年後、積算業務のコンピュータ化が実現することになる。この業務においても、積算歩掛とはなんぞやと理解して積算できる人間を失う結果を招いている。
現場調査から詳細設計ができる人間は昭和の化石となった。