2013年5月2日木曜日

中山道中津川宿(その5)ウマが合わない人間関係

不眠不休のような毎日が続いて約1年となる昭和40年初冬を迎えた。
その結果、担当していた1.6kmの路盤工事も名古屋方起点から美乃坂本駅までの約1kmの工事が進捗して軌道工事が開始された。工事区長から「君は能登線で軌道工事を担当していたので
馴れたところで路盤工事のほか軌道工事も担当せよ」と指示があった。
請負業者現場代理人が岐阜工事局OBを伴い挨拶に訪れた。能登線の例のごとしである。
現場代理人が軌道中心測量をしてもらいたいと願い出た。私は請負契約書の条文を示し、工事に必要な測量は請負者が施工することになっている。よって請負者側でやるべきで当局は一切関知しない。と突き放した。
数日後、区長が「固いこと言わんとやってやれ」と指示した。この忙しいときに業者の代行はできませんと抵抗した。が、「手元を出させるから頼むよ」と猫なで声で頼まれしぶしぶ応じることにした。
恵那山に初冠雪

この区長と上司である助役との人間関係がぎくしゃくしていた。区長が後ろ向きで座っている助役の背に向けていびり言葉を連発していた。工事管理要領の一つ一つを取り上げ「何やってんだ」と繰り返した。
助役はおとなしい柔和な性格。罵詈雑言によく耐えていると感心するくらいであった。反面、決断力に乏しく部下として頼りがいがない上司に思えた。大学の研究室が似合う人柄だった。
だがある日、罵詈雑言が続く途中、いきなりくるりと向き直り「馬鹿野郎」と叫んだ。それ以降、いびりが少なくなった。
区長は主管課担当係長に対してもルーズな工事発注を非難し、喧嘩腰で電話する日が多くなった。
昭和41年が明け私は23歳となっていた。
中津川にはパチンコ屋、飲み屋がひしめいていた。流行のダンスホールもあった。行きつけのバーもできた。ギターを持った流しのアンちゃんに1曲100円でリクエストしたものである。
4月になり区長、助役が入れ代りトンネル工事が発注されて技術掛2名が増員された。そのうちの一人が能登線に着任早々からお世話になった1年先輩であった。
能登線の思い出話に花が咲く
軌道工事も進捗して使用開始の秒読みが始まった。
ほぼ完成した軌道

最後の追い込み作業・美乃坂本構内名古屋方
大動員しての線路切換作業状況(美乃坂本構内塩尻方)

線路切換により恵那・美乃坂本間が複線化された。





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