2017年3月13日月曜日

「ことば」の文化

地域によって地域独特の「ことば」がある。いわゆる方言である。
しかし、この地域独特の「ことば」は明治以降、軍隊の指揮命令の解釈が混乱する場合があり、これが死活問題に直結する。そんなことから明治政府は標準語なるものを定めた。
にもかかわらず、地域独特のことばは依然として根強く残っている。

本州最南端の佐多岬を旅行した際に乗り合いバスに乗った。数名の高校生が声高に会話していた。
ところが大きな声の会話だったが、全く理解できないのである。時々「ジャイアンツ」という言葉だけが分かり、プロ野球の話をしているのだろうとは分かったが。

輪島地方のことばは能登のどの地域にもない独特なことばとなっており、今も普通に話されている。「そうだろういえっ」という意味は「そうでしょう」。イントネーションも独特である。
ある研究者によれば、輪島の方言は鳥取や島根、あるいは北九州松浦の海士の言葉と共通していると指摘されている。

能登でも地域によって独特のことばがあって、イントネーションも違っている。
「あののきゃ」は珠洲、「そんながびっちゃ」は旧柳田村。宇出津地方も漁師町の伝統があって、独特のイントネーションがあり、すぐ出身地が判別できるのである。「てんごするな」などはその例である。
金沢と能登のことばも全くと言っていいほど相違している。東北地方の出身者は、何十年たっても「なまり」は抜けない。「こっちいりゃぁ」、「エビふりゃぁ」は名古屋。

先の海士ことばと同様に、船で往来している地方は県が違っても同じことばを話している。
私が豊橋に勤務していた時に、若い人が電話で実家の誰かと話していた。魚津出身の若い人は宇出津のことばそっくりなのであった。蛸島、宇出津、七尾石崎は見分けがつかないくらいだ。

宇出津地方で「はんかくさい」ということばが使われる。函館五稜郭の土産物売り場に北海道の方言を書いた暖簾があった。そこに「はんかくさい」があって、非常に驚いた。金沢でも何のことかわからないのにだ。北前船の影響?それとも北海道開拓で能登の人たちが移住した?

方言は実に奥が深い。だが、テレビの影響で若い人達は方言を話さなくなってきた。ことばの文化の衰退を憂い淋しくもある。

2017年3月12日日曜日

長崎から船に乗って佐世保についたー♬(その2)

朝8時30分までに長崎港旅客ターミナルに集合した受講者100人前後は、チャーター船桟橋に向かった。
船のチャーター主は講習会の主催者である全国建設技術者協会である。

この協会は、全国の地方公務員(県及び市町村)の土木技術職員で構成されている。協会は毎年全国主要都市において、行政上必要な技術と知識の向上を目的とした講習会が分野別で概ね10か所で開催されている。

平成10年、県の外郭団体に転職したのだが、その機関の職員は年2回、自分が関心のある講習会に参加しても良いと聞かされたので、講習内容は二の次として、北海道から沖縄まで行くことを密かに決意。そして平成10年度は青森・盛岡、以降、郡山・新潟・東京・岐阜・明石大橋・しまなみ海道・広島・佐賀と回って今回の長崎・佐世保となった。退職までに北海道を除いては沖縄までと、密かな計画は成し遂げることができたのである。

さて、チャーター船は小型なので満員御礼といった状態で佐世保まで6時間の船旅。長崎港を9時に出航した。
航路
長崎は造船の町。三菱造船所で戦艦武蔵が建造されたところでもある。その造船所で豪華客船ダイヤモンドプリンセスが建造中であった。
ダイヤモンドプリンセスのすぐそばを通った
暫く行くと架橋工事現場が見えてきた。
現場見学も講習会の目的
船はやがて湾外へ
もうすぐ湾外となる場所でこれも建造中の豪華客船サファイアプリンセスを見ることができた。
完成した吊り橋を過ぎて湾外となった
湾外を出て5時間ほどは大海原。さすがこれには退屈した。
ようやく日本海と大村湾が繋がる海峡に差し掛かった。海峡は狭いので干満の差による潮流は、渦を巻き飛沫を上げて豪快だという。我々が通過したときは小さな渦ができている程度であった。
西海橋通過
船はハウステンボスがかすかに見えるところでUターンした。
バイパスの橋脚が工事中であった
現在はバイパスが供用されている
やがて佐世保湾に入った。海上自衛隊の自衛艦が何隻も見えてきた。
佐世保港に到着
佐世保市は、かつて旧海軍四軍港(横須賀・呉・佐世保・舞鶴)の一つとして鎮守府が置かれ、現代でも自衛隊や在日米軍の基地として伝統を受け継ぐ、造船および国防の町として知られる。また、西海国立公園に指定されている九十九島や日本最大級のテーマパークであるハウステンボスに代表される観光都市でもある。

海岸の直ぐ近くに佐世保駅がある。ここは高架化したばかりで、駅やショッピングセンターもぴかぴかの状態であった。
ホテルから佐世保湾の眺望
あくる日はトンネル工事現場を見学してから九十九島めぐりの観光船に。
観光船
九十九島全景
晴天に恵まれ素晴らしい景色を堪能することができた。
午後になり現地解散。列車に乗り長崎空港へ。そこから伊丹→新大阪→金沢と全行程が終わった。


2017年3月11日土曜日

長崎から船に乗って佐世保についたー♬(その1)

NHKのブラタモリという番組が好評である。半年前に金沢を訪問していたが、我々でも知らない場所や歴史を紹介していた。
先だっては、長崎を採り上げていた。番組を見ながら平成15年に開催された、全国建設技術者協会主催の講習会で長崎・佐世保に行ったことを思い出した。

それは平成15年10月、小松から博多まで飛行機、博多から電車で長崎。長崎到着が午後3時頃であった。講習会は翌日からの1日と船旅1日、佐世保1泊の3日間。前泊なので到着した3時から、駅を起点に市内を歩き回ることにした。
長崎駅
私にとって長崎駅といえば思い出深い駅である。高校の修学旅行で終着駅長崎に到着した。そして駅前に出た途端、バスガイド十数名の編成でブラスバンドによる校歌が演奏された。エエッ、こんなところに校歌がと驚きかつ感激したのであった。観光バス会社の粋な計らい!

さて、駅を出て先ず海岸を目指すことにした。ホテルがこの海岸近くだったので荷物を置いて身軽になった。
旅客船乗降ターミナルビル付近
この付近を暫く歩くと海岸を埋め立てた公園があった。現在、そこは「長崎出島」が復元されて景色が一変したそうだ。
1kmほど海岸に沿って歩き、旧上海銀行に立ち寄った。銀行は廃業していたが、カウンター等の設備が残されていて、往時のままの状態で見学できるようになっていた。江戸末期から昭和中期まで営業していたのだろうか。

坂を登り突き当りが大浦天主堂。内部に入り見学したが、それはとても荘厳な建物と施設であった。
そこを出て左に曲がるとグラバー邸入り口である。傾斜地を造成して建てられた建物なので、敷地内のエスカレーターで庭園に着いた。その一角にある邸宅に入った。
ここは修学旅行でも来た所なのだが、内部がどうだったのかはすっかり忘れていた。
グラバー邸外観

グラバー邸から外の風景を望む
竜馬の船中八策が展示されている
ある部屋には大きな食卓テーブルの上に食器類が並べられており、江戸末期の西欧人がこんな贅沢な生活をしていたのか・・・と思った。
庭園から長崎港が一望できるのだ
ここから次に向かったのはオランダ坂。
オランダ坂
オランダ坂の途中から左に折れると外国人居留地の建物が残っている。
外国人の住居群
しばらく坂を登ると頂上となって下り坂となる。
思案橋を過ぎ中華街に入った。人通りが多く賑わっていた。ここを通り抜け山裾の寺院群へ行った。先ず、崇福寺へ。
山門
ここの大雄宝殿と第一峰門は国宝建築である。興福寺・福済寺とともに「長崎三福寺」に数えられている。
本堂内部
本堂の内部は日本の寺と随分相違する。やはり中国の寺なのだなぁと納得するのである。
隣接する3つのお寺を見学して、「長崎は坂の町」を体験することにした。
こんな話を聞いたことがある。何で自転車に乗れないんだと聞いたら、長崎出身なんですと答えられたという。現地を歩いて見て、これでは自転車なんていらんわなぁ・・・と納得した。

狭い石段を暫く登ったところに亀山社中の記念館があった。

記念館に入場しようと中に入ったら、あいにく「本日休館日」と張り紙。しぶしぶ諦め、さらに長い石段の坂道を登った。ここの住人はマイカーも持てず大変だなぁと思いながら。
山の頂上まで住宅がびっしり。頂上に公園があった。その公園に隣接して竜馬の銅像が建てられていた。長崎港を見下ろしている姿。実際に本人も大望を抱いて眺めた景色なんだろうなぁ。
竜馬像
司馬遼太郎著の石碑
ここから近道へ行くことにした。
住宅はなく墓地が点在していた
翌日、2kmほど歩いて講習会場へ。講習のテーマが何だったのかすっかり忘れた。
夕方となって長崎で最も高い山、稲佐山で夜景を見ることにした。ロープウエーの乗り場が分からないので、通りがかりの年配女性に道を尋ねたら、何と親切なんだろう、「案内しますよ」と。
そして稲佐山の展望台に立ち、長崎の夜景を堪能した。
稲佐山からの展望
港の風景と山の頂上まで煌めく灯は素晴らしい。
この数年前、函館山の夜景を眺めたのだが、冷え切った空気の中で扇状に広がる煌めきはさらに素晴らしかった。
翌日は旅客船発着ターミナルからチャーター船で佐世保港に向かうことになっている。



2017年3月10日金曜日

「港神戸」見て歩き

六甲山が迫る地形が世界的な貿易港を形成しているのが神戸港だ。その歴史は古い。日宋貿易の拠点港であったり、江戸後期から明治前期にかけては北前船でも大いに賑わった。淡路島出身の豪商高田屋嘉兵衛もここが振り出し地であった。

江戸末期の1863年(文久3年)、江戸幕府の軍艦奉行であった勝海舟は、海防のための幕臣の教育施設として「海軍操練所」の設立を、当時の将軍であった徳川家茂に建白した。翌1864年(元治元年)、明治維新に多大な功績を残した坂本竜馬が塾長を勤めた諸藩の志士のための「海軍塾」と共に開設されたが、勝の更迭と同時に「神戸海軍操練所」と「神戸海軍熟」は閉鎖になった歴史も残る。

海岸線から僅か2kmに新幹線新神戸駅があるが、その駅は六甲山の山裾に位置している。
新神戸駅周辺
駅ホーム背面からは、いきなり急峻な山裾が立ち上がっている。駅から港にかけては緩やかな斜面の上に街が形成されている。

新神戸駅前に立つと右手に高層のホテルがあるが、私が訪れた時は「ダイエー」の名称だったように記憶している。驚くことに、ホテルの地下を降りると100mくらいはあろうか、自然の地形に合わせて建物が造られ、物販店やレストラン等がひしめき賑わいを見せている。

そこから右手に折れて暫く行くと外国人居留地の建物群がある。
異国情緒を味わえる
室内
1kmくらい緩やかな勾配の道を下ると神戸駅。駅を通り抜けるとデパートの入り口に至る。
このエリアはハーバーランドと称し、平成に入って開発された場所である。
往時のレンガ倉庫も残っており、レストランとなっている。
位置図
煉瓦倉庫レストラン
港の倉庫といえば、横浜MM21や清水港にもあるが、いづれも中々雰囲気が良い。ここも雰囲気が良かったので食事をした。
岸壁に沿って大型ショッピングセンター「モザイク館」がある。
ショッピングモールからモザイク館に通じる通路

ハーバーランド全景
モザイク館前の岸壁から遊覧船が出る
このエリアも旧国鉄の貨物施設があった場所。大いに賑わいを見せていることが嬉しく思うのである。

2017年3月9日木曜日

MBSとOBP

毎日放送局をMBSという。阪急梅田駅の東側から徒歩10分でそこに至った。新築間もない本社ビルだが、現在はその隣に別館ができたらしいが、私がそこに訪れた時はビルの前に、すり鉢状のアトリウムという空間があった。アトリウムの例として金沢駅前の日航ビルの北側に設けられている。

市街地再開発事業のビルに付き物の空間ではある。この空間を設けることにより、基準の容積率
にボーナスとして容積率アップを認める制度なのだ。
そんなことから、MBSのビルが新しくそこに建てられたということは??に思う。
MBS位置図
本館(M館)
それはさて置き、そのビルに入ってテレビ放送施設を見学させてもらう貴重な体験をした。
確か5階か6階だったと思うが、大部屋の壁一面にモニターテレビがづらりと何段にも並んでいて、大勢の社員が忙しそうに作業をしていた。
放送機器
一般的にこうした作業に従事する社員は制服か作業服が普通だが、ここはラフなスタイルの私服姿ばかりで、かつ皆若い人ばかりであった。恐らく作業パートごとに外託されているのかなとも思った。
番組は全てコンピューターが支配しているそうだ。
こんな場所の見学なんて、したくても、もうできないだろうなぁ。

次に向かったのは大阪環状線に乗って大阪城公園へ。OBPは大阪ビジネスパークの略称である。現在はピルがひしめいているが、我々が訪れたのは平成6年だから20数年前になるので、まだそこに建てられていたのはパナソニックツインビルだけであった。
OBP位置図
現在のOBP
ビルに入って担当者からOBPの開発計画の説明を聞いた。
あれからここに行ったことはない。が、10年ほど前に長崎空港から伊丹に向かう飛行機が、丁度この真上をしかも低空で飛んだのである。食い入るように窓の下に広がる景色を眺めた。午後7時頃だったが、薄暗い景色の中にひときわ明るくOBPが輝いて見えた。これもバブル時代の賜物に違いない。



2017年3月8日水曜日

大阪かてよろしおま!

27兆円の債務を引き継いだ清算事業団は、毎年3兆円の利払いを続けた。毎年関空を造り続けるほど巨額な利払いであった。
現在はマイナス金利と様変わりしているが、当時の鉄道債の金利は8%であった。
郵便局で10年間定額預金していると元金が倍増したのだが、今となっては夢物語。

しかし、そのお陰で平成10年度末には土地処分の見通しがついたため清算事業団が廃止された。それ以降、バブル崩壊とリーマンショックを経て「20年の失われた日本経済」が続いたといわれる。
バブルでは日本経済が沸騰した。住宅会社を営む知人の話によれば、毎晩片町へ出かけた。財布には100万円は入っていたという。

これにより旧国鉄用地のうち、日本全国の主要都市に必ず存在した「死に体」の貨物ターミナル用地は、市街地再開発事業により見事に息を吹き返した。金融環境が開発資金需要を満たし、土地処分が進んだのである。

名古屋笹島や岐阜香蘭、大垣、敦賀、金沢等の土地処分業務に関与したのだが、類似の開発事例調査のため大阪や神戸にも公務で現地を訪れた。

大阪梅キタ地区では、阪急梅田の向かい側の大阪鉄道管理局の跡地に、いち早くヨドバシカメラがオープンした。それがまだ開発されていない頃で、広大な貨物跡地を調査したことがあった。
ウメキタ
現地調査の合間に、写真左に梅田スカイビルがあるがここに行ってみた。このビルは 地上40階・地下2階、高さ約173メートルの超高層ビルである。その独特の形状から大阪のランドマークとなっている。イギリスの出版社が選ぶ「TOP 20 BUILDINGS AROUND THE WORLD」の一つに、アテネのバルテノン神殿、ローマのコロッセオといった歴史的建造物と共に選出されるなど、世界的に有名な建築物で、訪れる者の3割を外国人が占めるとされる。平成5年竣工、平成27年1,500万人が来館達成したという。現在、ウメキタの開発が競うように始められている。
東西の棟は屋上で結ばれている
屋上は空中ガーデンと呼ばれ展望も360°の素晴らしい眺め
大阪一の高さを誇る「あべのハルカス」はここに来た当時から25年後に完成するのだ。
ウメキタの西側道路を歩き、大阪駅南地区再開発事業地に向かった。
そして高速道路の高架橋を眺めた時、「あれは何だ!」と驚いた。
阪神高速道路11号線のど真ん中にビル!
ビルをぶち抜いた道路があるではないか!
こんな風景は前代未聞!
凄いことをやったもんだなぁと感心して眺めた。

2017年3月7日火曜日

続・東京漫歩:新都庁完成2年後の展望台へ

研修センターがあった板橋といえば、加賀藩邸があった縁で現在も板橋区と金沢市との交流が盛んである。
が、私が研修にいった当時は悔しながらも、金沢とそんなゆかりのある地域だとは知らなかった。
地図を調べると確かに「加賀1,2丁目」という地名があり、また加賀〇〇公園という名称が付けられた公園がいくつもある。そんなことを知っていたなら、ゆかりの地をこの目で確かめたかったと反省するばかりである。

平成5年の研修当時、東京都庁が新宿副都心に完成したのが平成3年だったので、まだ2年しか経っていないピカピカ状態だった。
そこで、研修期間の初期に新都庁に行ってみようと思い立った。
新宿駅へは以前にも国鉄在職中に何度か訪れたことがある。構造物設計事務所という内部機関があったので、金沢鉄道高架事業関係で構造物設計の指導や審査を受けに何回か通った。そこへは、いつも甲州街道に面した南口を利用した。

東京都庁へ向かうには、西口からが近いので初めてそこを歩いた。西口から大通りを1直線で400mほど歩き都庁に着いた。途中の京王プラザビルはこの界隈でも古手のビルとなった。
そして都庁が吾が眼前に。外装が細かいので高さが一層際立って見えた。
存在感は断トツ!
展望台はイースト館とウェスト館の2か所にある。で、東京港方向が良く見えるイースト館を登ることにした。

地上45階、高さ202mの展望台へは高速EVですぐ着いた。観光客はそんなに多くはないので、ゆっくり全周を回ることができた。建設中の新築ビルがいくつか認められた。

新宿副都心となる以前の土地利用はどのようだったのかを調べてみた。
そこは淀橋浄水場と言われる東京都水道局の施設であったことがわかった。
都庁移転前の淀橋浄水場全景
新都庁は正にこのど真ん中に建てられた。展望台から眺めてもそんな施設があったなんて微塵も感じられなかった。
新幹線で間もなく東京に到着という頃、車窓の左手にやたらペンキが塗り重ねたような木造の都庁が見えたものである。

大東京といえども、現在から30年ほど前までは「大規模な地方都市」といえる街であった。