原則、米の売買は禁止されていた時代、「米穀通帳」は昭和40年代まで必要だったのである。が、終戦後5,6年を過ぎたころから警察官の取り調べは事実上なくなっていた。
私のおふくろは宇出津出身なので、宇出津の出来事などをよく聞いていたから、かつぎのおばさんが来るのを楽しみにしていた。
昭和30年代でも七尾線の列車の中はかつぎのおばさんがかなりのスペースを占領していた。
汽車を待つおばちゃんたち |
中にはおじさんの姿もある |
車内はこんな感じ |
だいたいおばちゃんたちは威勢がいい。大きな声で笑ったりして会話は賑やかだった。
こんな風景が見られなくなったのはディーゼル化したあたりだろうか。モノと文化を担いだおばちゃんたちの姿がなつかしい。
1 件のコメント:
昭和40年に入る迄魚の行商おばさんは来ましたね
お米と交換てカニや🦀魚🐟を
良く買いました。
大正11ねん生まれの父の祖母が
物心ついた頃に
宇出津から魚を背負い輪島で
歩いてとどける駄賃稼ぎのおばさん達は柳田の山越えで
魚が取れない輪島に運んだ見たいです
柳田 知る限りは大正字だから
おばちゃん達は
重い荷物を背負って頑張って
柳田の子供達を育てたようです
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