2018年5月1日火曜日

46年前の記憶

最近の話だが、グーグルの車が歩道に乗り入れ写真撮影をしていると問題になっている。ストリートビューが誰でも閲覧できるようになって4,5年くらい経ったのだろうか。この切れ目のない写真はどのようにして撮影するのか不思議なのだが、地図をアップしていけばいかなる場所でもストリートビューが可能である。
泥棒がストリートビューで下見し、入る場所を予め狙い定めているともいう。犯罪にも利用されているらしい。

先日、かつて広島・大野地区に勤務していた場所や、借り上げ宿舎だった家が現在どのように変わっているのか気になってストリートビューを見た。新築中の平屋建て家屋の大家さんに、完成したらお借りしたいとお願いしたら、「養子縁組が決まってこの家を建ているのでお貸しできません」と断られたのだが、1年ほど経ってその大家さんが勤務先まで訪ねて来られ、「養子縁組の話が消えた。もし、ほかにまだ借りておられないのならどうぞ使ってください」と話され即入居することになった家だった。

その家はもう取り壊され違う建物が立っていた。付近の風景が一変していた。その場所から400mくらい離れた場所に仮設建物の事務所が私の勤務場所だった。事務所は昭和46年に新築されたのだが、昭和46年12月に地元が新幹線建設反対の旗を降ろし、トンネルが着工の運びになったことから担当者として転勤を命じられ着任した場所である。その事務所はまだ残っていると風の便りで聞いていたのだが、ペンキが剥がれ薄汚い建物になっているが、その姿を見て46年前の記憶が鮮明に蘇ったのである。

この事務所の右側に寮が建っていた
 非常階段が残されているのには驚きだった。非常階段とフェンスの間に20km以上も離れた県境の小瀬川から石を運搬し池を作ったこと、その池に鯉を飼っていたが、2歳の娘と餌をやったりしたなぁと次々と思い出が溢れでた。日曜日には2階の事務所で何台もある電話(鉄道電話)で娘と電話ごっこもしたなぁ・・・とか。

宿直室では徹夜で麻雀もやったなぁ
ついでに現場にも行ってみることにした。

道路整備は予想もできなかった

昭和50年1月は試運転中だった
3年半の在勤であったが、オイルショックに直面したり設計変更処理が山積みで途方に暮れたり、二女が生まれたりと思い出が尽きない場所のストリートビューなのである。
なぜ仮設建物が残ったのかその理由は、土地所有者が仮設建物を家具店に使いたいので現状有姿で譲渡してほしいと願い出たためであった。

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