2024年2月7日水曜日

医療費3割は負担感が大きい

昨年は確定申告書を提出したので、昨日から関係書類を整理して確定申告に取り掛かった。先ず、医療費の集計をした。去年は10万円を超えていたので今年も当然同じ程度だと考えていた。分厚い領収書の合計金額が10万円を突破すると考えていたが、それが5万円以内に収まったではないか。家内の分も4万円台だった。

一昨年は年末に前立腺の手術をしたこともあって、自分の分だけで10万円を超えていた。しかし昨年は入院するような病気にはならなかった。

ネットで確定申告の方法等について調べてみると、山ほど資料があったので、もう一度確定申告について再確認してみることにした。その結果、年金収入のみの場合は、400万円以内では申告の必要がないこと、医療費も10万円以内だったことから取りやめることにした。そんなことで、今朝は晴れやかな気持ちとなっている。

PCで確定申告するようになったのは10年ほど前からだが、数年間続けていたものの、取りやめてみたら何ら支障がないのでそうしていた。それが入院費が大きかったことや、昨年は能登の実家の売却収入があったことから久しぶりに確定申告した。引き続き今年もそうしようと思っていたが、入院費控除が10万円未満となって該当しないことがわかった。

それにしても、昨年は医療費が1割から3割負担となり来年の更新時期まで継続となる。これは負担感が大きい。早く元に戻りたいと願っている。

2024年2月6日火曜日

3cmの除雪

 昨夜は雪が降りやまないので明日の朝は大変だなぁと思ったのだが、今朝、外を見たら僅か3cm程度の積雪だった。朝食後、ごみ捨てに行ってから家に入らず雪かきすることにした。これくらいの雪なら走りながらやれるとタカをくくったが、いざ始めてみると今朝の雪は重い。側溝の蓋を開け、走りながらその穴に向かって雪を投げ込んだ。


玄関から門扉までの狭い空間はあっという間。そこからガレージ前に移動して側溝穴を目掛け走りながらそこへ投げ込んだ。3cmくらいだから走りながら除雪ができた。


カメラの写りがいまいちだが、晴天なら問題ない。スマホが古く性能がいまいち。
5年くらい使用したから替え時なのだろう。晴れておればもう少し写りはいいのだが・・・

2024年2月5日月曜日

町会の定期総会は出席者制限で開催された

昨日は町会の定期総会が集会所で行われ、それに出席した。定期総会は全会員参加で開催されるものだが、まだコロナやインフルエンザの蔓延防止の観点から、新旧役員(班長を除く)のみで開催された。町会長から司会役として参加を要請されたので参加した。経過報告や予決算、行事計画等が提案され、出席の皆さんから積極的な意見が述べられた。

総会は新集会所が完成するまでは近くの会社の会議室や他町会の会館、公民館等を借用して開催されたが、平成22年に3階建て集会所が完成したことからそこで開催されてきた。

平成21年総会(近くの会社の大会議室)

総会は全世帯参加(昼食付)が基本だったが、大体6割前後(120名前後)の会員が参加した。

令和2年総会(集会所3F)

平成22年に新集会所が完成したので、3階会議室で開催したが、全世帯開催は困難なので新旧役員と新旧班長に限定して開催することになった。

昨日は出席者制限で新旧役員のみの開催となった。最近は急激に新住宅が建築され300世帯に膨れ上がった。住みよいまちづくりは永遠の課題である。

2024年2月4日日曜日

立ち直り第1段

震災から1カ月経過した今月1日、七尾市の公設地方卸売市場で今年最初の初競りが行われた。まだまだ立ち直るには時間が必要な中において、震災前の従前業務が復活したことは希望が湧いてくるようなニュースだった。

威勢のいい「初競り」再開!

今月1日朝5時半すぎ、七尾市の公設地方卸売市場では、ことしの初競りが行われ、競り人たちのかけ声が飛び交うなか、県内で水揚げされたブリやなまこなどが次々と競り落とされた。
七尾市の公設地方卸売市場は、能登半島で唯一の公設の卸売市場で、初競りを1月4日に行う予定でしたが、地震によって休業を余儀なくされていた。
市場では、地震の揺れや液状化現象で建物の入り口に段差ができたり、駐車場に亀裂が入ったりして、車の通行が難しくなったほか、魚を洗うための海水が通る配水管が壊れるなどの被害が出ました。

元気のいいセリで震災のうっぷんが和らいだ

その後、被害が出た場所を応急的に補修し、建物が仮復旧したことなどから、1日から市場を再開できたということである。
競りに参加した業者は「市場が再開してよかったし、魚も鮮度がいい状態だ。ただ、断水で衛生上、魚がさばけないことで魚を買いに来ている人も半分くらいになっているようだ」と話していた。

ここから元気の源が発信される

「七尾魚市場」営業第一部の細口守部長は「なんとか1か月で再開できたことはうれしく思っています。もっともっと水揚げを増やして魚を供給していきたい」と話していた。
途方にくれる被災者の皆さんに、少しでも元気が届くように願うばかりだ。

2024年2月3日土曜日

名神高速のけしからん事故

たまたま見ていたTVニュースで、名神高速でトラックから投げられた赤い色の瓶が、後ろに走っていた乗用車のフロントガラスにあたり、そこを突き破って運転者の顔面に直撃し、意識をうしない重傷を負ったという。全くけしからん話である。

1日、名神高速道路を走っていた車に“瓶のような物体”が直撃し、運転していた男性が重体となった事故があった。直撃した物体の勢いは凄まじく、車の前後の窓ガラスを突き破るほどだった。
事故があったのは大垣市の名神高速・下り線で、1日午前8時ごろ、追い越し車線を走っていた乗用車に向かって飛んできたものが、フロントガラスを突き破り、運転していた男性に直撃したという。



この事故で岐阜県美濃加茂市に住む48歳会社員の男性が、頭の骨を陥没骨折したとみられ、意識不明の重体である。飛んできたものとは一体なんだろう。
通報したのは、直撃を受けた車の助手席に乗っていた同僚の男性(30代)。
(助手席の男性)
「前を走っていたトラックから“瓶のようなもの”が落下し、運転手に当たった」
“瓶のような物”は、フロントガラスを突き破っただけでなく、リアガラスも突き破るほどの勢いだった。
“瓶のような物”が運転していた男性にぶつかったあと、助手席の同僚がハンドルを操作して車を路肩に止めたという。
警察は、現場に落ちていた物をいくつか回収していて、男性に直撃した物の特定を進めているという。


ニュースの映像では、赤い色の瓶のようなものは、かなり太いものだった。あまり見たことがない形状だった。
実は自分もトラックから投げられた缶のようなものがフロントガラスにぶち当たった。場所は北陸自動車道木ノ本ICを降りて関ケ原方面に向かって走行していた県道だった。対向車のトラックから投げられた。スピードが遅かったのが幸いして、フロントガラスは無傷だったが、顔面を直撃する位置だった。相手は対向車だから突然の出来事だった。
今回の事故はニュースの映像からトラックナンバーが判明するかもと期待している。厳罰を降してもらいたいものである。

2024年2月2日金曜日

火野正平氏がついでに行った場所(宇出津第二トンネル)がわが心の風景

 もう去年の話になったが、こころの旅(春版)で宇出津や曽々木を巡ったのだが、宇出津から曽々木に向かうバスに乗る時間前の宇出津駅跡地の場面があった。そして、何と予定にはなかったと思われる散歩を始めたのだが、そこは吾が幼い時に遊んだおふくろの実家付近だった。岩屋町踏切を通ってさらに宇出津第二トンネルに向かって歩き始めたではないか。これには大いに驚いた。

宇出津第二トンネル入り口付近

気まぐれに向かったトンネル

かつて宇出津第二トンネルは、能登線宇出津・松波間建設のスタート地点だった。トンネル内には、モーターカーやディゼル機関車が留置してあった場所であったので、ここは思い出がいっぱい詰まった場所である。

まさかその中に?

レールがめくられ荒れている

何と出口付近まで歩いた!

こんな思い出が深い場所に正平氏が行ってくれたのである。目頭が熱くなった。このトンネルから田ノ浦まで一人でディゼル機関車を運転した。そんな思い出が次々に浮かんで。

能登線建設事務所のメンバーが小木の日和山公園で花見の宴を開いた(s37.4)

「正平さん、思い出の地を散歩していただきありがとうございました」とお礼を言いたい。

2024年2月1日木曜日

92歳の美声

BSの歌番組で92歳となった二葉百合子が、おはこだった「岸壁の母」を歌っていた。現役時代と全く衰えていない美声だった。自分とは11歳年上なのだが、歌っている姿を見て何だかパワーをもらったような気がした。
この岸壁の母は、母の愛唱歌だった。正月やお盆に実家(元柳田村)に集まった5人の子供やその孫の二十人前後の前で必ずこの歌を歌ったものだった。柳田に帰省する繰り返しは、親父が平成8年に脳梗塞で倒れるまで続いていた。

92歳とは思えない美声だった

二人の門下生も出演 二人とも師匠からいただいたという着物姿

二人の門下生は今も師匠宅で指導を受けているという。
さて、岸壁の母のモデルは幡野いせさんという富来町出身の人。

岸壁の母のモデルは富来町出身の人

幡野いせさんと息子さん

いせさんは東京に住んでいたという。二葉百合子の大フアンだったようで、コンサートには欠かさず顔を出したり、自宅に二葉百合子が訪れたりと交際がつづいていた。
シニアクラブの旅行会で増穂が浦に立つ歌碑を見たり、世界一長いベンチに座ったりした。

ただ、息子さんは生きていたが帰国しなかったという。理由はよく分からない。