2017年3月6日月曜日

30年の時空を超えて

昭和62年4月1日、100有余年の歴史を誇った国鉄が分割民営化した日である。
その1、2年前から諸準備が進められ、特に雇用問題に焦点があてられた。
我々建設技術者にも分割後の雇用問題に向かって取り組みが強化されていた。
先ず進められたのがゼネコンへの出向策であった。
当局は効率的に実行することを主眼にして、個人個人を指名して強制的に合意せざるを得ないように実施した。
意思に反して指名された者としては不満が募ったが服従の道しかなかったのである。
そのほか、やむを得ず建設省、通産省、県、市などへも多くの者が転職した。当局に頼らず退職し自営業に転じるものもあった。残ったものはJR東海、西日本、清算事業団へと離散したのである。

あれから30有余年を経た昨日、一昨日と氷見の民宿で「岐工OB会北陸支部」の第1回OB会が開催された。
参集者は14人。開宴1時間前に民宿に到着し幹事部屋に入った。既に10人ほど集まって話し込んでいるその場に、30年という時空を経て再会したので、2,3人しか誰なのか見分けが付かなかった。

だが、間もなく全員の顔と名前が一致した。そして、今日に至るまでの経過について語り合った。

元気な姿に乾杯!
宴会では幹事が本会の発足経緯について述べられ、順次現在に至った経過報告を行った。
宴が進むにつれ、30年の時空を取り戻すようにあちこちで話し込む姿があった。

そん時お前はどうした?と同期の桜
金沢高架化プロジェクトで一緒にテーブルを並べた後輩がこの度この会の発起人となった。
感謝感激、ありがとう!

2017年3月5日日曜日

続・東京漫歩:寅さん

今から14年前となった平成15年4月、親戚の結婚式で再び東京に行く機会があった。
結婚式の翌日、すぐ金沢に帰るのは余りにも芸がなさすぎるということで、寅さんの舞台だった柴又に行ってみようということになった。
東京駅から最も時間のかからないアクセスを調べた結果、常磐線金町駅まで電車に乗ることにした。
歩いたルート
金町駅から帝釈天までほぼ一直線。この道路と並行して京成電鉄の線路敷がある。帝釈天まで2km余り。やがて左手に金町浄水場が見えてきた。この浄水場を通り過ぎるまでかなりの歩数を数えた。
浄水場の取水箇所はすぐ裏手の江戸川である。かつてこの川の汚染が極めて危険なレベルに達していた。そのため「日本一まずい水」と評価されていた。下水道施設の整備が進み江戸川も本来の姿に戻ると共に、取水した水をオゾン浄化方式を採用した結果、ボトルウォータ「東京水」として販売するまでになった。

その隣に帝釈天の参道入り口がある。
寅さんが歩いた商店街
そこを通り抜けると帝釈天となる。

今にも和尚さんが出てきそう
ここは比較的観光客は多くなかった。このお寺の裏に「矢切の渡し」がある。そこまでは行かずにUターンして再び商店街をあちこち覗き歩いた。
だが、寅さんの撮影に使われた店は判然としなかった。しかし、おいちゃんやさくらがこの近くに住んでいるように思った。
商店街を過ぎると直ぐ京成柴又駅に出る。
フーテンの寅さんもこの駅から全国各地へ旅立ったんだろうな。
柴又駅から電車に乗って20~30分で地下鉄に乗り換えた。地下鉄は汐留で下車した。
この汐留地区はJR貨物基地だった場所で、現役時代に現場見学に訪れたことがあった。
線路が撤去され再開発を待つ状態
ここがどのように再開発できるのか関心を強く持っていた。
汐留駅の地上に出た時、「オォー」と歓声が上がった。そこは別世界に生まれ変わり、超近代的な街並みが輝いていたのである。バブル景気に沸いた頃とほぼ同時期に再開発されたが、「地上げ屋」がつきものとされた都市再開発ではあるが、この地区には一切暗躍する場がなかった。
シオサイトと命名された
ここに「ゆりかごめ」の始発駅がある。それに乗ってお台場に向かった。「ゆりかごめ」からの眺望も天下一品。ぐるぐる回ってレインボーブリッジを通り過ぎると間もなくお台場駅に到着する。
大型物販店がひしめき、フジテレビの社屋が目立つ存在である。
自由の女神もある
別の機会にフジテレビ社屋に入場したことがあった。ビルの高層部にTV放送室の内部が解放されていて、今にも放送が開始されるかのような見ごたえがあった。

2017年3月4日土曜日

東京漫歩:江戸東京博物館

昨日、東京へ研修に行った時期について重大な錯誤をしていたことが分かったが、これに関連して自分で「どうもおかしいなぁ」と感じながら稿を書き進めたことがあった。
それは、今月1日の上野~両国の記事を書いている時であった。
国技館のすぐ裏手に江戸東京博物館がある。確かその博物館に行った日が旧安田庭園を出てそこに向かった筈と記憶していたが、その施設の開設した年月を調べていて平成4年ではなく、翌年の平成5年3月となっていた。「そうかなぁ」と思いながらも別の機会に訪れたのを勘違いしているんだろうと、稿に掲載することを取りやめたのである。
そして、錯誤に気付いて「やっぱり行ったんだ!」と納得した。

江戸東京博物館の外観は奇抜な形状をしている。私には犬が吠えている姿に見える。
建物外観
地下1階、地上7階建て。1階からエスカで6階の常設展示館まで登った。そこは江戸ゾーンと東京ゾーンに区分けされて、実物大の日本橋や商家が圧倒的ボリュームで展示されている。
エスカ入り口
実物大
商家の復元

100万都市江戸の賑わいをリアルに再現
模型もあるのだが、実物大の建物をよくもこれだけたくさん作ったものだと舌を巻いた。
昭和のゾーンでは、庶民の住宅とされたその中にに入ってみることができる。東京大空襲の惨状も再現されていた。
昭和のゾーンの住宅
この施設見学は残念ながら2時間余で閉館時間となってしまった。まだ半分も見学していなかったので、後ろ髪を引かれる思いでそこを出た。
百聞は一見にしかずという。東京へ行かれる場合は是非お寄りされることをお勧めできる施設であった。
ただし、今年10月から改修工事が予定されており閉館となるようなのでお確かめの程を。

2017年3月3日金曜日

東京漫歩(その10)羽田空港の展望デッキで半日も

昨日まで東京を歩き回ること9回の記録を辿ったが、ここで重大な錯誤を発見した。
それは今の今まで、研修が実施された時期が平成4年とばかり思い込んでいたのだが、羽田空港の歴史を調べていて、第1旅客ターミナルビルの完成が平成5年9月と記されているのに気付いた。
研修の終わりの休日は、新築整備されたターミナルビルを見学しに行こうと考えたのが動機で、そこへ向かったから錯誤していたことがわかった。
よって、研修期間は平成5年9月下旬から11月上旬と訂正することとする。(汗)

JR浜松町駅の2階に東京モノレールの始発駅がある。この車両は鉄道車両と比べ短い。そして旅客の利便性を考慮してドアのそばにトランクを置くスペースがある。JRや私鉄の電車にはない座席シートの間にもそのスペースが確保してある。
高架に跨って走行するので眺望は抜群に素晴らしい。

ビルの間隙を縫うように進む列車はやがて天王洲アイルに到着した。
ここは市街地再開発事業で天王洲アイルという名称のビルができたばかり。ここへも現場研修で訪れた。ウォーターフロントという言葉が重宝され始めたのはここが起源。ビルと水辺を調和させた広場に佇むと心が和む空間であった。
天王洲アイルとモノレール
左手に運河と倉庫らしき建物群が続く。やがて左手にJR東海の新幹線大井車両基地が見えてくる。ウナギの寝床のような長くて広い敷地に何本もの列車が留置されている。
車両基地
到着
モノレールは空港付近で地下に潜る。写真では高架になっているが、たぶん6年前にオープンした国際ターミナル付近なのだろう・・・・。

ターミナルビルは出来立てホヤホヤのピカピカ。中央コンコースも広くて休憩用のシートも座りごこちがいい。
中央コンコースも広大
6階までの吹き抜けを眺め、2階、3階と徘徊して展望デッキへ行った。

ここもゆったりとした場所となっている
直下に旅客機が何機も。一機が滑走路に出ていくと控えていた旅客機が待ってましたとばかり緩やかに動き出す。1,2分間隔で次々と飛び立つのである。もちろん着陸する旅客機も次々と。
そんな様子が面白くて半日も展望デッキに釘付けとなった。
間もなく出発
羽田空港の発着便数は世界第4位という。つい最近、滑走路が新設されて使用開始された。
それにしても不思議に思うことがある。
往復搭乗券に1泊朝食付きののホテル代と合わせて24,000円の格安なチケットが販売されている。ホテル代はどうなっているのか不思議に思う。

そして「鉄道の時代は去った」という思いを強くした。


2017年3月2日木曜日

東京漫歩(その9)浜松町~NEC~泉岳寺~品川界隈


浜松町駅と言えば羽田空港までの東京モノレールの始発駅である。少なくとも1度や2度は浜松町駅で乗降された方も多いことであろう。駅に隣接して現在物議をかもしている東芝本社ビルがある。日本を代表するあの大企業が倒産の危機にあるという。
伊豆大島行きの竹芝桟橋もここから400mくらいの位置にある。

さて、今回は浜松町駅で下車して品川方面へ歩くことにした。
徒歩ルート
駅の直ぐ前に世界貿易センタービルがある。かつてはこの界隈で最も高かったビルで、以前このビルの最上階の展望室に訪れたことがあった。

駅前から増上寺付近の公園あたりで左に折れ、しばらく歩くとスケールの大きいビルが見えたきた。ビルの前でそれはNEC本社ビルであることが分かった。
デザインが素晴らしい
PC98のシェアーはどれ程だっかのかは調べてないが、世界的なブランドに育ったことは違いない。私でさえ98を持っていたのだから・・・。
だが、先の東芝ではないが、NECも中国・台湾や韓国メーカーの台頭で元気が無くなった。是非もう一度世界に勇躍してほしいものである。
そうこうしている内に泉岳寺に着いた。
泉岳寺山門
泉岳寺は赤穂義士の菩提寺として余りにも有名であるが、現在も多くの人が訪れ、義士の墓苑で線香を手向けている姿があった。
義士の墓が43基ある境内
このお寺は徳川家康が外桜田町に創建したものだが、寛永の大火で焼失し現在地に再建された。
東京大空襲でも戦禍に遭遇し、山門・義士館(旧義士館=現講堂)以外の諸堂が焼失し、歴代の功業は大いに削がれてしまったが、次の42世祖天凖爾和尚は戦後の苦境の中に諸堂の再興を発願し、遂に昭和28年(1953年)に本堂の再建を果し、以後これが継承されて現在に至っている。現在も伽藍・境内等の整備が戦後復興の一環として続けられている。
講堂には赤穂義士が討ち入りした衣服や用具が展示されていた。衣服には当時のままの名前が記されていた。これらの展示品がそっくり移転されたという。

平成13年に義士討入り三百年を記念し、浄財を募って浅野家の塋域(史蹟)を整備し、新たに赤穂義士記念館が建設されたという。
寺宝と共に大石良雄の書状をはじめとする赤穂義士関係の資料を展示して、赤穂義士の已むに已まれぬ心情を伝承することに資してるそうだ。

そこを出てしばらく歩くとJRの広大な線路敷が見えてくる。そこは田町電車区で端から端まで2km余に及ぶ。行けども行けども線路敷・・・の状況が続いた。
停車場配線図
この図面は停車場配線図といい、配線計画を行うときに必ず作成される。東海道本線を挟み、上下貨物仕訳線や電車留置線、転車台等が示されているが、現在は必要最小限の線路だけを残して再開発事業が実施・完成したり、田町新駅建設と都市開発事業構想が固まり、建設工事が動き出している。
何せ広大!
かなりの時間歩いた。やがて品川駅前となって右に品川プリンスホテル系のビルが見えてきた。

この10年後、東京出張でこのホテルに宿泊した。レストランで朝食していた時、どこの方言だろう?と耳を傾けたら韓国語であった。見た目は全く分からない風貌なのだが、日本人より多いのではないかと感じた。
品川駅に入って、長い通路を通り港側の出口に立った。うらぶれた佇まいの駅前風景だったが、10年後再び訪れて余りの変貌に驚愕した。そこは高層ビルがひしめく近代的風景となっていた。

2017年3月1日水曜日

東京漫歩(その8)田舎者!の失敗談

東京歩き探訪も7回を数え、研修期間も残り少なくなって探訪はあと2回のみとなった。
その内の一つが浜松町、泉岳寺方面から品川界隈、もう一つは羽田空港である。その記録は明日以降のUPとしたい。

この稿はつくづく「田舎者だー」と赤面した失敗談の記録である。
これまで数か所の歩き探訪は歩き終わってJRに乗り池袋駅に帰着した。1,2回はその都度JRの乗車券を駅で購入していたが、SUICAというカードがあることに気付いた。料金1,000円分のカードを自販機で購入して、JRを利用する場合全てそれを使用した。首都圏は地方と比べ運賃が安く設定してある。1,000円でも結構持つのである。
JR東日本SUICAカード
改札口の通過が非常に楽になった。何回か使用している内に無意識にカードを機械に入れ、改札口がパッと開いてカードを取り出す、そんな動作が当たり前になってきた。
その動作が大失敗を引き起こしてしまったのだった。

事件は東部東上線池袋駅改札口に発生した。
東部東上線改札口
長い行列に並んで次々と改札口を通過しているので、意外と早く私が改札口に立った。というよりは立ち止まったわけではなく、人の流れに乗って歩いている状態だった。カードを入れ2,3歩進んだ時、いきなり改札口のゲートが閉じてしまった。で、どういうことが起こったか。

私が流れに乗って進んでいたのが、いきなり足を止めたものだから、間隔がほぼゼロの乗客4,5人がドドドツと倒れ込んだ。そして私のカードが出てこない!数秒間なんでや?とボーとしていたが一瞬閃きが走った。「そーか、カードはJRのみ有効だった」と気が付いた。
長い行列の人たちから私に向けられる「白い目」。ただただ平身低頭お詫びするしかなかった。俺は何という田舎者!と自分で自分に呆れた記憶であった。

東京漫歩(その7)上野~浅草~吾妻橋~両国まで踏破

今回は上野駅から浅草寺を経由して両国駅まで歩いた記録を辿った。

一昨年3月に北陸新幹線が開通し、東京・金沢間は2時間半で結ばれたが、かつて東京へ行くときは金沢から夜行列車に乗って信越線か上越線を経由して早朝に終着駅上野に到着したものである。列車から降りた乗客はホームの洗面所に並んで煤けた顔を洗った。

上野駅は東北線・常磐線・上信越の終着駅。駅は「お上りさん」達で溢れかえった。石川啄木も「なまり」を聞きに行ったところだが、今では新幹線で直接東京なのでそういう光景が無くなってしまった。集団就職で新卒者が列車で上京して最初に降り立ったところが上野駅だった。井沢八郎が歌でその光景をうまく表現した場所でもある。

昭和38年10月、能登線の建設事務所から岐阜市にあった本局へ赴任する途中、姉の結婚式のため家族一同が夜行列車に乗って上野駅に到着した。そんな思い出を温めながら上野駅に降りた。


 

 上野駅はもう一つ忘れがたい思い出がある。それは新幹線上野駅の建設工事現場を見学した時のことである。
狭い仮設階段を地下深く降りて行くと大空間が現れた。そして上部の空間にコンクリートの構造物2条が交差して宙吊となっていた。それは地下鉄だと聞いて驚いた。凄いことができるものだなぁと感心することしきりであった。日本の土木技術は大したものだと改めて認識した。

駅を出るとペデストリアンデッキがぐるりと張り巡らされていた。こちらのはずだと思い込み、階段を降りてしばらく歩いた。何だか様子が変だと気づいた。そこは御徒町の入り口だったのである。
暫く戻って方向を見極め浅草方面に向かって歩いた。その大通りは高層ビルがほとんどない商店街が連なっていた。
上野から両国まで歩いたルート
雷門をくぐり抜けると仲見世。本堂までかなり長いお土産屋がひしめいている。観光客もそれに負けずに多い。
国宝の本堂は関東大震災の被災を免れたが、昭和20年3月の大空襲で五重塔と共に焼失した。現在の本堂は昭和33年に再建された鉄筋コンクリート造である。
本堂に入り天井を見上げた。素晴らしい天井画が描かれていた。

雷門から仲見世、本堂に至る

天井絵は3面描かれている
真ん中の絵
浅草寺を後にして吾妻橋たもとに。左手すぐ下に隅田川水上バスの乗船場がある。後日、ここからそれに乗り竹芝桟橋まで川下りの観光をしたことを思い出した。
吾妻橋を渡ると向こうの川岸のビルの屋上に奇妙なモニュメントが見える。アサヒビールが金色のモニュメンントを据えてアピールしているものである。誰かが「ウンコ?」と言っていたがそうにも見える。

屋上に金色のモニュメント
橋を渡り切り右折し階段を降りて河川敷の遊歩道路を歩くことにした。
遊歩道路の直近に首都高速道路が聳え連なっている。その真下にブルーシートで囲った仕切りが延々と並んでいた。何だろうと近づいてみるとホームレスの住まいだった。現在は立ち退いてすっきりしているらしいが。おびただしいホームレスの人たちはどこへ行ったんだろうと余計な心配。

1kmほど歩いて蔵前橋から上に出て一般道路を歩き、旧安田庭園に行った。潮の干満を利用して池の水を引いていたが、河川の汚染が進んだため今では上水道に頼っているのだとか。
大名屋敷を安田財閥の創業者が購入したが、東京都に寄付された
安田財閥の財力の一端を伺い知れるのであった。
ここを出ると直ぐ蔵前国技館前である。力士の名前が書かれた旗が林立して風でなびいていた。

館内には入場せず、すぐそばの両国駅から電車で帰路に就いた。