一昨年3月に北陸新幹線が開通し、東京・金沢間は2時間半で結ばれたが、かつて東京へ行くときは金沢から夜行列車に乗って信越線か上越線を経由して早朝に終着駅上野に到着したものである。列車から降りた乗客はホームの洗面所に並んで煤けた顔を洗った。
上野駅は東北線・常磐線・上信越の終着駅。駅は「お上りさん」達で溢れかえった。石川啄木も「なまり」を聞きに行ったところだが、今では新幹線で直接東京なのでそういう光景が無くなってしまった。集団就職で新卒者が列車で上京して最初に降り立ったところが上野駅だった。井沢八郎が歌でその光景をうまく表現した場所でもある。
昭和38年10月、能登線の建設事務所から岐阜市にあった本局へ赴任する途中、姉の結婚式のため家族一同が夜行列車に乗って上野駅に到着した。そんな思い出を温めながら上野駅に降りた。
狭い仮設階段を地下深く降りて行くと大空間が現れた。そして上部の空間にコンクリートの構造物2条が交差して宙吊となっていた。それは地下鉄だと聞いて驚いた。凄いことができるものだなぁと感心することしきりであった。日本の土木技術は大したものだと改めて認識した。
駅を出るとペデストリアンデッキがぐるりと張り巡らされていた。こちらのはずだと思い込み、階段を降りてしばらく歩いた。何だか様子が変だと気づいた。そこは御徒町の入り口だったのである。
暫く戻って方向を見極め浅草方面に向かって歩いた。その大通りは高層ビルがほとんどない商店街が連なっていた。
上野から両国まで歩いたルート |
国宝の本堂は関東大震災の被災を免れたが、昭和20年3月の大空襲で五重塔と共に焼失した。現在の本堂は昭和33年に再建された鉄筋コンクリート造である。
本堂に入り天井を見上げた。素晴らしい天井画が描かれていた。
雷門から仲見世、本堂に至る |
天井絵は3面描かれている |
真ん中の絵 |
吾妻橋を渡ると向こうの川岸のビルの屋上に奇妙なモニュメントが見える。アサヒビールが金色のモニュメンントを据えてアピールしているものである。誰かが「ウンコ?」と言っていたがそうにも見える。
屋上に金色のモニュメント |
橋を渡り切り右折し階段を降りて河川敷の遊歩道路を歩くことにした。
遊歩道路の直近に首都高速道路が聳え連なっている。その真下にブルーシートで囲った仕切りが延々と並んでいた。何だろうと近づいてみるとホームレスの住まいだった。現在は立ち退いてすっきりしているらしいが。おびただしいホームレスの人たちはどこへ行ったんだろうと余計な心配。
1kmほど歩いて蔵前橋から上に出て一般道路を歩き、旧安田庭園に行った。潮の干満を利用して池の水を引いていたが、河川の汚染が進んだため今では上水道に頼っているのだとか。
大名屋敷を安田財閥の創業者が購入したが、東京都に寄付された |
安田財閥の財力の一端を伺い知れるのであった。
ここを出ると直ぐ蔵前国技館前である。力士の名前が書かれた旗が林立して風でなびいていた。
館内には入場せず、すぐそばの両国駅から電車で帰路に就いた。
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