2013年6月13日木曜日

青春時代の真ん中(その7)課の若い衆を率いて能登観光へ

昭和40年代になって国民所得の伸び率が高水準に推移するのに伴い、マイカー普及率が急速に伸びた。東名、名神高速自動車道も建設が急ピッチに進んでいた。
昭和43年7月、静岡・焼津間用宗地内の東海道新幹線を跨ぐ橋りょうの桁架設工事を、道路公団から岐阜工事局が業務委託を受けることになった。
その監督業務を土木課数名で行うことになり、その監督者の一人に指名され現場に助勤という形で赴任した。宿泊は用宗の焼き肉屋の離れの一室を間借りした。
その離れは在日韓国人が営む焼き肉屋の娘二人が住んでいた部屋であった。二人とも息を飲むほどの美人であった。襖に毛筆で大きく「慟哭」と書いてあった。失恋の悲しさに耐えかねて書かれたものだと推測した。
監督業務は新幹線最終列車通過を確認して、保線所運転管理者に工事着手の許可を得て請負業者に着手承認をし、新幹線確認車(通称つゆはらい車)が通過する10分前に作業終了の指示をし、保線所運転管理者に作業終了報告を行うのが工事監督者の仕事。従って、全てが深夜作業となる。鉄桁架設の指導は、この道30年のベテラン工事工手長があたった。
安倍川手前に巴川製紙という工場がある。東名高速と新幹線が交差する橋りょうはその付近にある。後年、東京へ出張するたびにここを通過するとき、往時の深夜作業が思い出された。
この出張が終わり岐阜に戻ってしばらくして、能登へ行ってみたいという若い衆の思いがあることを知った。
能登出身者として、この希望を叶えさせてやりたいと思った。おふくろに家に泊まりに行ってもいいか打診した。「何とかなる」と返答を受け、8月お盆前に男9人、女4人の14人が能登旅行に出発した。ハイライト1カートンを持って車掌室に行って、臨雇4人の急行乗車の承諾をお願いに行った。
金沢駅到着の際は、改札係りにお願いした。随分厚かましいお願いをしたものだと思うが・・・・・。
先ず兼六園へ
通行可能だった鼈甲橋

我が家で会食
宇出津行のバスを待つ
遠島山公園で
宇出津駅前から定期観光バスに乗車して狼煙に向かった。全国から押し寄せた観光客で賑わってバスに乗りこぼれる者が多くあった。
狼煙灯台で
曽々木海岸
垂水の滝付近で海水浴
露天風呂のような雰囲気
今日の反省会
翌日は総持寺、能登金剛、千里浜を観光した。
能登金剛
羽咋駅からタクシー3台に分乗
当時の千里浜は広い!
本当は手をつなぎたかった
今は亡き「おふくろ」に大勢で押しかけ難儀させ希望を叶えさせてくれたことに感謝したい。
その家は17年前におやじが脳梗塞で倒れて以来空き家になってしまった。年に2,3回掃除に行くだけとなったが、能登旅行の楽しかった思い出は永遠に消え去ることはない。

2013年6月8日土曜日

青春時代の真ん中(その6)薬師岳頂上満天の星

昭和42年8月初旬、課で登山の体験談をしていたら、1年先輩から立山縦走をしないかと話が持ち上がった。1年後輩が一緒に行ってみようと私を誘った。登山計画によると、有峰湖から薬師岳に向かって登山開始、薬師岳頂上でテント宿営、そこから五色が原へ縦走しテント宿営、ザラ峠を経て室堂付近で宿営、最終日に剣岳に登って下山する3泊4日の壮大な縦走プランであった。
寝袋を貸してくれるという人があって、その気になり8月10日富山に向かった。
富山から富山地鉄に乗り換え終点からさらに有峰有料道路を経て有峰湖の折立登山口までバスに乗った。
登山ルート
登山計画の記録が残っていないので、45年前のおぼつかない記憶をたどることとする。
折立から太郎平に向かって登山を開始した。
リュックには4日分の食料と衣料品、飲料水がぎっしり詰め込まれており、1時間も歩くと息切れしたので荷を少しでも軽くするため飲料水を捨てた。登山を続けているうちに喉が渇いたが水場がなく飲料水を捨てたのが悔やまれた。
太郎平遠望(ネット検索データより)
午後5時過ぎ薬師岳頂上に到着し、テント設営を行った。雪渓から流れ出ていた小さな水の流れが日暮れと共に気温低下で凍結してしまった。
薬師岳頂上(ネット検索データより)
薬師岳頂上で
雲上でテント設営
夜の帳がすっかり降りて辺りは漆黒の闇に包まれた。
何気なく空を仰ぐと満天の星。星空がこんなにきれいなものなのかと感動した。


翌日早朝、五色が原に向かって出発した。
馬の背を行く

縦走道・足を滑らせれば一巻の終わり
10時間以上も歩いただろうか。ようやく五色が原テント宿営地に到着した。
五色が原テント宿営地・右前方が薬師岳
テント設営地
憩いのひととき・眼下に黒部湖が
 翌朝、外に出てみると昨日の晴天が嘘だったように小雨がぱらついてきた。急いで朝食を済ませてテントをたたみ室堂に向かって出発した。
佐々正成が越えたといわれるザラ峠にさしかかる頃、風雨が強くなって全身びしょ濡れになり、震えながら喘ぎながら峠を越した。
想定外の悪天候となったので、室堂でのテント宿営を断念、翌日の剣岳登山も中止と決定してバスに乗り帰路に就いた。
平成18年9月、再び室堂に立った
平成18年9月、バスツアーで室堂に訪れた。その地に立ち、往時の縦走が懐かしく蘇った。


2013年6月6日木曜日

青春時代の真ん中(その5)青春の血のたぎり

課の青年部とりまとめをするようになり組合事務所に出入りする機会が増えた。
組合事務所は本庁舎の別館として建てられた木造2階建てで古ぼけた外観にそぐわない「新館」と呼ばれていて2階が大会議室、1階に和室が二部屋あって、その奥に間口2間、奥行き6間のスペースが組合事務所になっていた。
事務所の玄関前には、国鉄労働組合名古屋地方本部岐阜工事局分会と表示された看板が掛けられていた。
昭和43年御用始め、組合関係者の年始顔合わせ
分会執行委員長、書記長はこの事務所に常駐していた。いわゆる「やみ専」であった。執行委員長は係長クラスが選出されていて任期が2年。地本の執行委員長は組合の猛者であったが、岐阜工事局の分会執行委員長は職員代表者として当局と「なあ、なあ」関係で組合業務を取り仕切った。
工事局の業務体質から、地本の当局に対するスタンスとは馴染めない部分が多くあった。
だが、40,41年新規採用者が全職員の3割を占めるようになって、分会執行部を突き上げる雰囲気が出てくる場面があるようになった。
国鉄組織に工事局が全国に7か所設置されていた。組合は地本関係よりも、その7つの工事局分会が全国工事局労働組合協議会を結成して、工事局職員の労働条件改善要求を本社建設局と協議しながら待遇改善に努力した。近代的設備の整った独身寮の設置、老朽化した木造宿舎の高層アパート化、超過勤務、旅費の増額交付等に当局も誠意を持って対応してくれた。本社は国鉄合理化の先兵となっている工事局労働者との良好な関係を維持せざるを得なかったのである。
新採で若手職員が増加する中で、青年部活動が活発になってきた。
夏になると青年部主催のキャンプ交流等が盛んに開催された。
各課青婦部交流会・伊吹山
昭和42年郡上八幡キャンプ祭典
青婦部幹部の集会
スイカ割競技・見事ハズレ
昭和43年工青協西部ブロックキャンプ祭典
各課青年部とりまとめ役一同
古マクラギを持ち込みしてキャンプファイヤー
いろいろなゲームを企画演出した
昭和44年工青協西部ブロックキャンプ祭典・秋吉台
秋吉台ユースホステルで1泊
岐阜からこんなに大勢が出かけた団結力は凄い
国鉄に就職することになって帰郷した際、親父が「組合運動だけはするな」と忠告した。しかし、自分一人が皆の行動に背を向けることはできなかった。
昭和44年4月には副青年部長に祭り上げられていた。



2013年6月1日土曜日

9千人参加の子ども提灯行列

昨日(5/31)、百万石まつりの序章である子ども提灯行列が開催されました。
午後6時頃から市内各地から続々と「しいのき迎賓館芝生広場」に5,6年生の児童が集まってきました。
千坂校下少年連盟では北側少連会長、中屋公民館長、千坂小学校下川校長を始めとして父兄等関係者を含め300名が参加しました。
このほか、高崎元少連会長、岩田元交通安全推進隊長、池田元体育部長等のボランティアスタッフの皆さんも応援にかけつけていただきました。
全参加者数52団体9,072名が広場を埋め尽くし、一気に百万石まつりのムードが高まりました。
続々と集結中
千坂少連も元気いっぱい
提灯点灯
9千人の一部を占める千坂少連
午後7時、ファンファーレが鳴り響き出発式が開始しました。
続いてソプラノ歌手石川公美さんが壇上に立たれ9千人が市歌を合唱。
市歌合唱
続いて子ども会連合会長があいさつ、山野市長、松井市議会副議長からお祝いの言葉を述べられ、野口教育長の音頭で万歳三唱。
このあと、子ども会連合会少年委員長瀬戸拓実さん(千坂少連所属)が出発宣言をし、行進が開始されました。
先頭は大会旗
千坂少連は先頭から二番目、市役所前で「金沢市万歳」を叫びました。
市役所前を行く千坂少連
千坂少連の行進ルート
元気に行進
写真に何と地元の子どもたちが!北國新聞掲載記事
もうすぐゴールだよ
よく頑張ったね
最高の天候コンデションに恵まれ、百万石まつりの序章である提灯行列を楽しむことができました。
ご支援、ご協力を賜りました少連委員ほか関係者の皆様に厚く御礼を申し上げます。

2013年5月30日木曜日

青春時代の真ん中(その4)職場レクで大忙し

現場事務所(工事区)において、営業線に近接した工事を担当する者にとっては、工事施工による列車運転事故防止に細心の注意力が求められ、平日、休日、昼夜を問わず常につきまとう。このため、精神的疲労が蓄積していく。
その現場勤務から本局勤務になり、精神的な解放感に存分浸った。
昭和42年4月から昭和44年9月広島転勤までの2年半は吾が青春時代の真ん中、仕事は人並みにこなしながら余暇は人並みの倍以上活動し青春時代を謳歌した。
局内では各課対抗のテニス、卓球、野球、ソフト等の各種競技大会が開催され、選手として出場した。
岐阜県立球場で
バレーボール大会で優勝!
代表選手
冬はスキー大会・舟山スキー場
7月中旬から8月末まで「夏季鍛錬」と称して1週間に2回半休が付与された。
この期間だけ有効の雀荘割引券や長良川水泳場更衣室割引券が発行され、スキー山岳班による平湯キャンプ場が開設されて家族連れで賑わった。局内にはスキー山岳班のほか麻雀班、茶道班、生け花班、撞球班、野球部があり活発に活動していた。100人以上が参加する麻雀大会の情景は壮観であった。
敦賀松原海岸海水浴で
課の青年部まとめ役に祭り上げられたが、やるからには徹底して任務を果たそうと努力した。
岐阜市近郊へハイキングの引率
伊吹山へ青婦部のハイキング
彦根城、竹生島へ旅行会
土木課青年部で保古湖の天然スケート場へ
土木課青年部で三河湾旅行会
昭和42年頃から全国各地にボーリング場が開業した。時流に乗り遅れないように昼休みに岐阜駅前のボーリング場に通った。また、工事局サッカーチームが発足しユニフォームを揃えて長良川グラウンドへ練習に通った。だが、各務ヶ原自衛隊チーム等と試合をしたが、ついに1勝もあげられなかった。
秋には岐阜大学付属小学校のグラウンドを借用して局内運動会が開催され職員家族が1日を楽しんだ。
応援合戦で沸いた
勤務時間中に横断幕や応援グッズを製作しても、どこからもクレームはなかった良き時代だった。

2013年5月26日日曜日

青春時代の真ん中(その3)4回目の青春

私は日本人男性の健康寿命である70.4歳の今、24歳の出来事を振り返っている。当時の写真を見ていると、それなりに青春を謳歌していると思う。そして、わが青春に悔いはないと満足感を抱いた。
そんな時の23日、三浦雄一郎さんが世界最高峰のエベレスト登頂に成功し、世界最高齢者の記録を樹立したと報道された。
80歳の三浦さんは「4回目の20歳だ」と元気そのものである。
この快挙は高齢者にとって「自分もまだまだ何かやれるかも知れない」と若返りの秘訣を教わった方も多いだろう。私もそのうちの一人である。
登頂成功(ネットより)
今朝の朝日新聞「天声人語」に三浦さんにまつわる記事が掲載されていた。その記事に深く共感を覚えたので皆さんに紹介したい。

天声人語 朝日新聞H25.5.26
登った山からは下りなくてはならない。史上最高齢でのエベレスト登頂のあとの、三浦雄一郎さんの下山の苦闘を、続報記事がうかがわせる。無事に生還してこそ成功なのだと、自分に言い聞かせつつの一歩一歩だろう。細心と不屈に頭が下がる
▼頂(いただき)の栄光にくらべて、下りる行為は地味だが侮れない。事故はむしろ下山で起きている。東京への電話で、ご本人は「ふらふらで歩く幽霊みたい」と語ったそうだ。登ったら終わり、ではないから登山は厳しく、難しい
▼三浦さんは、若き冒険スキーヤーだったときにエベレストに惹(ひ)かれた。初登頂者ヒラリー卿の家を訪ね、飾られた写真を見てのことだ。「滑降したい」と言うと「クレージー」と笑われた
▼だが「やってみたらいい」と励まされた。「人間はいつだって不可能かもしれないことを超えてきた」と。三浦さんの信条である「目標を持って生きれば、わくわくできる」の源流だと、前にお聞きしたことがある
▼三浦さんはその後、エベレストを高所から滑降し、今回は自身3度目の頂を踏んだ。英国隊の初登頂から今年で60年。今は天界に昇ったヒラリー卿も、冒険心を失わぬ80歳のがんばりを見守ったことだろう
▼青春とは年齢ではなく、心のあり方だと言われる。似た意味で、高齢の人には三つのタイプがあるとも言われる。まだ若い人、昔は若かった人、そして一度も若かったことのない人。快挙に励まされて「まだまだ若い人」が世に増えそうな、明るい予感がする。   以上

この文章に、青春とは年齢ではなく、心のあり方だ・・・・・というくだりがある。
「まだまだ若い人」が世に増える一員に加わり、私もまだまだ青春を謳歌できるよう心掛ける決意を持った。