昭和40年代になって国民所得の伸び率が高水準に推移するのに伴い、マイカー普及率が急速に伸びた。東名、名神高速自動車道も建設が急ピッチに進んでいた。
昭和43年7月、静岡・焼津間用宗地内の東海道新幹線を跨ぐ橋りょうの桁架設工事を、道路公団から岐阜工事局が業務委託を受けることになった。
その監督業務を土木課数名で行うことになり、その監督者の一人に指名され現場に助勤という形で赴任した。宿泊は用宗の焼き肉屋の離れの一室を間借りした。
その離れは在日韓国人が営む焼き肉屋の娘二人が住んでいた部屋であった。二人とも息を飲むほどの美人であった。襖に毛筆で大きく「慟哭」と書いてあった。失恋の悲しさに耐えかねて書かれたものだと推測した。
監督業務は新幹線最終列車通過を確認して、保線所運転管理者に工事着手の許可を得て請負業者に着手承認をし、新幹線確認車(通称つゆはらい車)が通過する10分前に作業終了の指示をし、保線所運転管理者に作業終了報告を行うのが工事監督者の仕事。従って、全てが深夜作業となる。鉄桁架設の指導は、この道30年のベテラン工事工手長があたった。
安倍川手前に巴川製紙という工場がある。東名高速と新幹線が交差する橋りょうはその付近にある。後年、東京へ出張するたびにここを通過するとき、往時の深夜作業が思い出された。
この出張が終わり岐阜に戻ってしばらくして、能登へ行ってみたいという若い衆の思いがあることを知った。
能登出身者として、この希望を叶えさせてやりたいと思った。おふくろに家に泊まりに行ってもいいか打診した。「何とかなる」と返答を受け、8月お盆前に男9人、女4人の14人が能登旅行に出発した。ハイライト1カートンを持って車掌室に行って、臨雇4人の急行乗車の承諾をお願いに行った。
金沢駅到着の際は、改札係りにお願いした。随分厚かましいお願いをしたものだと思うが・・・・・。
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先ず兼六園へ |
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通行可能だった鼈甲橋 |
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我が家で会食 |
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宇出津行のバスを待つ |
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遠島山公園で |
宇出津駅前から定期観光バスに乗車して狼煙に向かった。全国から押し寄せた観光客で賑わってバスに乗りこぼれる者が多くあった。
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狼煙灯台で |
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曽々木海岸 |
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垂水の滝付近で海水浴 |
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露天風呂のような雰囲気 |
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今日の反省会 |
翌日は総持寺、能登金剛、千里浜を観光した。
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能登金剛 |
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羽咋駅からタクシー3台に分乗 |
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当時の千里浜は広い! |
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本当は手をつなぎたかった |
今は亡き「おふくろ」に大勢で押しかけ難儀させ希望を叶えさせてくれたことに感謝したい。
その家は17年前におやじが脳梗塞で倒れて以来空き家になってしまった。年に2,3回掃除に行くだけとなったが、能登旅行の楽しかった思い出は永遠に消え去ることはない。
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