地滑り計測器の作動状況点検確認を続けて10日ほど過ぎた深夜、突然現場事務所の地滑り警報非常ベルが鳴り響き、寮で就寝中の全員が跳ね起きた。
工事区長が青ざめた顔で次々と職員に対応方針を怒鳴るように指示した。請負業者にも直ちに現場状況の調査を命じた。
助役が駅長に列車運転状況を確認したところ、信号機が赤を現示し全列車運転休止中となっていた。
事務所に連絡員を一人残し、全職員が現場に急行した。
私は職員1人を伴い山の頂上の地割れ状況確認のため、懐中電灯を照らしながら現場に向かった。
トンネル入り口付近を通ったとき、線路に異常がなかったので一先ず安心した。急な崖路は幸いにして雨は降らずに足を取られることはなかった。ただ、強い季節風が木々を揺らし不気味な音を発していた。
火事場の馬鹿力か、疲れは感ぜず現場に到着した。目視確認、地割れに変化なし。計測記録紙を確認したところ、針が大きく振幅した記録が数か所に認められた。3か所の計測器とも同様であった。不思議に思いながら計測器の作動状況に注視した。暫くして振幅の原因を突き止めた。それは強風のためピアノ線が揺れて異常値が発生していたのであった。このことを一刻も早く駅長に連絡して列車運行開始をしなければならなかった。現在なら携帯電話ですぐ連絡可能であるが、当時は直ちに下山して口頭で伝達するしかなかった。列車運行が開始された連絡を受け、事務所に集まった全職員の顔に安堵感が溢れた。
とはいえ、地滑りの危険がなくなったわけではない。万一の危険率を限りなくゼロにするための方策を練り、緊急に対策を実施しなければならなかった。
このため、綿密な地形測量を早期に実施されることになった。
測量要員は主管課(土木課)だけでは対応できないので、線増課からも派遣されることになった。
当然私も測量要員に組み入れられた。急峻な崖を線路中心方向に対して10m間隔で横断測量を実施することに決定された。作業パーティは4人編成として、箱尺、ポール、距離測定テープ、視準器(ハンドレベルという)を用いて崖の測量作業が開始された。それはロッククライミングしながら測量を行うような難作業であった。
2013年3月30日土曜日
2013年3月28日木曜日
国内最先端を誇るトンネル施工技術集団
我が国の鉄道の歴史は明治5年、新橋・横浜間の開通から始まった。政府は西欧列強並の国力を築くため、全国の鉄道網構築に注力した。明治後半といえば新橋・横浜間が開通してわずか30年前後だが、極めて短期間に日本列島に現在の骨格である主要幹線が開通した。能登線61kmが開通するのに10年余を要した。これと比べれば、注力されたそのエネルギーの凄まじさが実感できる。
日本列島は山岳地帯が多い。それ故に急峻な地形に鉄道を敷設するにはトンネルや橋りょうが多くなる。そうしたことから我が国の土木技術開発は国鉄が担ってきた。
昭和37年3月、当時としては我が国最長の北陸トンネルが完成した。その計画設計と工事管理を岐阜工事局が担った。岐阜工事局では紀勢線、神岡線、北陸本線親不知トンネルなどを請負ではなく直轄方式を導入し、施工技術発展向上の研究開発に努力し貢献した。
昭和39年4月、鉄道建設公団発足により青函トンネル工事が着手された。この技術陣は岐阜工事局直轄部隊が主力となった。
そんな職場風土が漲った岐阜工事局でも、愛岐トンネルは難工事の一つであった。工事区長はトンネル一筋の筋金入りであった。
その区長から地滑り観測システムの説明があった。山の頂上部の亀裂の動態を3基の計測器により測定しており、一定以上の変動がある場合、列車信号機に連動させ列車停止の赤信号を現示させると同時に、工事区事務所に警報ブザーが鳴動するというものであった。
私の業務は、変動記録計器の記録紙交換とインク補充、亀裂の目視確認であった。説明を受け現地に案内してもらうことになった。
曲がりくねった急な崖路を登ること約30分、息を切らせてようやく頂上に到達した。そこに地割れした部分を跨いで3本のピアノ線が張られていた。用紙の交換、インク補充の方法を教えられ下山した。
精神的に緊張する任務に責任感と不安感が同居した。
日本列島は山岳地帯が多い。それ故に急峻な地形に鉄道を敷設するにはトンネルや橋りょうが多くなる。そうしたことから我が国の土木技術開発は国鉄が担ってきた。
昭和37年3月、当時としては我が国最長の北陸トンネルが完成した。その計画設計と工事管理を岐阜工事局が担った。岐阜工事局では紀勢線、神岡線、北陸本線親不知トンネルなどを請負ではなく直轄方式を導入し、施工技術発展向上の研究開発に努力し貢献した。
昭和39年4月、鉄道建設公団発足により青函トンネル工事が着手された。この技術陣は岐阜工事局直轄部隊が主力となった。
そんな職場風土が漲った岐阜工事局でも、愛岐トンネルは難工事の一つであった。工事区長はトンネル一筋の筋金入りであった。
その区長から地滑り観測システムの説明があった。山の頂上部の亀裂の動態を3基の計測器により測定しており、一定以上の変動がある場合、列車信号機に連動させ列車停止の赤信号を現示させると同時に、工事区事務所に警報ブザーが鳴動するというものであった。
私の業務は、変動記録計器の記録紙交換とインク補充、亀裂の目視確認であった。説明を受け現地に案内してもらうことになった。
曲がりくねった急な崖路を登ること約30分、息を切らせてようやく頂上に到達した。そこに地割れした部分を跨いで3本のピアノ線が張られていた。用紙の交換、インク補充の方法を教えられ下山した。
精神的に緊張する任務に責任感と不安感が同居した。
| 定光寺工事区で |
| くつろぎタイム・トンネル工事担当の先輩、後輩と |
2013年3月27日水曜日
山が動いてる、線路が危ない!
着任して1か月ほどしたある日、係長から「トンネル工事現場の山の頂上付近の地表面に地割れが発生して地滑り発生の恐れが出た。そうなると線路が破壊されてしまうので観測計器を山に設置した。現場事務所の要員に余裕がないので観測調査員として長期出張を命ず」、と通告があった。
名古屋から電車で30分(当時)で定光寺駅に到着する。その駅から多治見までの数キロメートルは急峻な山あいの崖下に玉野川という川沿いに線路がある。万一、地滑りが発生すると線路はひとたまりもなく破壊されるという地形である。
急峻で狭隘な地形に複線化するのは困難なので、別線で線路線形をスピードアップが図れるように曲線半径を大きくするためと列車保安上、複線断面のトンネルを施工する計画となったものである。
地滑りの原因は崖の地表面に直近して複線断面のトンネル掘削によるものであった。
中央線ルートは川沿いの僅かな平坦な部分を巧みに利用して設定されている。ここに横断面図のとおりトンネルを掘削中であった。トンネル内部に入ってみると、アーチクラウンが側壁上部とずれが発生しており、原因は地山の圧力が相当かかっているためとみられ、応急的に支保工を取り付け防護されていた。
岐工情報という年1回発行されている部内誌があるが、その表紙に現場写真が掲載されていた。
次の日から毎日朝夕2回、そのほか深夜でも警報が鳴るたび急峻な山の頂上まで、息せき切って登山しなければならなかった。
名古屋から電車で30分(当時)で定光寺駅に到着する。その駅から多治見までの数キロメートルは急峻な山あいの崖下に玉野川という川沿いに線路がある。万一、地滑りが発生すると線路はひとたまりもなく破壊されるという地形である。
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| 中央本線定光寺・古虎渓間愛岐T位置図 |
地滑りの原因は崖の地表面に直近して複線断面のトンネル掘削によるものであった。
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| 線路横断面図 |
岐工情報という年1回発行されている部内誌があるが、その表紙に現場写真が掲載されていた。
| トンネルと線路の位置関係がよくわかる |
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| トンネル掘削の坑外設備は大工場の様相だった |
2013年3月26日火曜日
龍宮城から帰った浦島太郎
昭和38年10月15日、工事区長から「岐阜工事局土木課勤務を命ずる。土木第六係勤務に指定する」と記載された辞令が渡された。赴任は一週間以内に行うことが慣例となっていた。
たまたま、東京に住んでいた姉が結婚することになり、神田神宮で挙式する日がその一週間以内に合致していた。故に能登から親戚縁者10人が上京するのに合わせて同行することにした。
私の汽車賃は赴任乗車証発行により不要であった。東京で2泊して岐阜に向かった。随分得をしたように思った。
ところが1週間後、経理課に呼び出され、「君は7月に寒冷地手当が支給されている。冬期前なので全額戻入しなければならない」と。
実はその寒冷地手当で何と扇風機を購入していたのだ。そんなことで数千円の赴任手当は消えてなくなった。
独身寮は木造2階建て、34年から新規採用者が増え始め、35,36,37年採用者が特に多かったため、60数名が入寮してすし詰状態となっていた。客間や卓球室にまで寮生が入り、私は10畳間3人部屋に入った。
同部屋の一人は七尾出身の2年先輩、もう一人は長野佐久市出身の1年後輩であった。
土木課第6係の業務は中央本線高蔵寺・古虎渓間の複線化工事を担当していた。係長、主席、課員は能登線現場から帰ってきた人が多かった。そこは軌道工事とは無縁の世界。愛岐トンネルという複線断面の工事管理と発注業務を主としていた。私は再び右も左もわからない仕事を担当することになった。
2年2か月間の能登線建設に従事した者にとって、龍宮城から帰ってきた浦島太郎そのものの状態になった。暫くの間は1年後輩に仕事の方法を教わりながら業務を行った。
たまたま、東京に住んでいた姉が結婚することになり、神田神宮で挙式する日がその一週間以内に合致していた。故に能登から親戚縁者10人が上京するのに合わせて同行することにした。
私の汽車賃は赴任乗車証発行により不要であった。東京で2泊して岐阜に向かった。随分得をしたように思った。
ところが1週間後、経理課に呼び出され、「君は7月に寒冷地手当が支給されている。冬期前なので全額戻入しなければならない」と。
実はその寒冷地手当で何と扇風機を購入していたのだ。そんなことで数千円の赴任手当は消えてなくなった。
独身寮は木造2階建て、34年から新規採用者が増え始め、35,36,37年採用者が特に多かったため、60数名が入寮してすし詰状態となっていた。客間や卓球室にまで寮生が入り、私は10畳間3人部屋に入った。
| 寮でのひととき |
土木課第6係の業務は中央本線高蔵寺・古虎渓間の複線化工事を担当していた。係長、主席、課員は能登線現場から帰ってきた人が多かった。そこは軌道工事とは無縁の世界。愛岐トンネルという複線断面の工事管理と発注業務を主としていた。私は再び右も左もわからない仕事を担当することになった。
| 係の旅行会・浜名湖舘山寺にて |
2年2か月間の能登線建設に従事した者にとって、龍宮城から帰ってきた浦島太郎そのものの状態になった。暫くの間は1年後輩に仕事の方法を教わりながら業務を行った。
2013年3月25日月曜日
能登線余談その3(最終章)
平成16年、この年、のと鉄道穴水・蛸島間が年度末を以って営業を停止することが決定された。それでも存続を求める地元の声は止むことがなかった。
しかし、存続を求め関係各機関へ奥能登から訪れる陳情団の中に、マイカーに乗って来る人が珍しくなかった。マイカーの普及と道路網の整備が進み、鉄道利用よりも車の方がはるかに便利になったことを如実に現している。のと線宇出津・穴水が1時間、穴水・金沢2時間、急行でも2時間半の鉄道に対してマイカーで2時間弱では軍配はどちらかが明白。
だが、高齢者、通学者は埒外にされてしまう。しかし、そのための経営を民営会社に負わせることもできない。
昭和62年、国鉄は分割民営化された。それまで採算性を棚上げして全国隅々まで鉄道事業を続けてきた。その結果、累積債務が27兆円。その金利が毎年3兆円。関空建設費が3兆円という。毎年関空を作り続けていかなければならない天文学的といえる借金を抱えていた。
さて、話を元に戻そう。
能登線が廃止決定されて、その前に乗り納めに行こうと思い立った。女房もつきあうと云ってくれた。ある日、その話を高校のクラスメイトにしたところ、ワシも付き合うと言ってくれた。もう一人のクラスメイトも女房も一緒につきあうと。結局、3組夫婦6人で「さらば能登線、見納め会」と銘うって5月15日乗り納めを行うため早朝金沢を出発した。このメンバーは以前から2度も海外旅行をしている仲間である。私には過ぎた仲間である。私個人のために付き合ってくれるという仲間を、これからも生涯の友として大切にしていきたいと思っている。
列車の最前部に立ち、前もって工事記録写真を整理したものをファイルに入れ、通り過ぎる景色とそれを見比べながら終点蛸島までの1時間を楽しく、懐かしく、これで最後となる列車の旅を楽しんだ。
蛸島に到着して珠洲焼資料館、能登ハーブ園を周り、かつて数回訪れたことのある九十九湾断崖上に建てられた眺望の優れたホテル「百楽荘」に1泊した。60代の女将さんに昭和36年頃の話をしたところ非常に喜んでもらえた。当時、20代の姉妹がおられレコードを借りに行ったこともあった。
その一人が女将さんであった。能登線存続の活動を精力的に行っているという話を伺った。
翌日、真脇遺跡を経由して能登空港に寄り道した。
能登線が開通してからでも東京へ行く場合は8時間を要した。それがわずか1時間。このギャップは埋めようがない。金沢から小松空港経由しても2時間半はかかる。
能登は便利になったと痛感する。
能登線は消滅した。しかし、私の青春時代に築いた能登線は奥能登の発展に欠くべからずの鉄道であったことは紛れもない事実であろう。
しかし、存続を求め関係各機関へ奥能登から訪れる陳情団の中に、マイカーに乗って来る人が珍しくなかった。マイカーの普及と道路網の整備が進み、鉄道利用よりも車の方がはるかに便利になったことを如実に現している。のと線宇出津・穴水が1時間、穴水・金沢2時間、急行でも2時間半の鉄道に対してマイカーで2時間弱では軍配はどちらかが明白。
だが、高齢者、通学者は埒外にされてしまう。しかし、そのための経営を民営会社に負わせることもできない。
昭和62年、国鉄は分割民営化された。それまで採算性を棚上げして全国隅々まで鉄道事業を続けてきた。その結果、累積債務が27兆円。その金利が毎年3兆円。関空建設費が3兆円という。毎年関空を作り続けていかなければならない天文学的といえる借金を抱えていた。
さて、話を元に戻そう。
能登線が廃止決定されて、その前に乗り納めに行こうと思い立った。女房もつきあうと云ってくれた。ある日、その話を高校のクラスメイトにしたところ、ワシも付き合うと言ってくれた。もう一人のクラスメイトも女房も一緒につきあうと。結局、3組夫婦6人で「さらば能登線、見納め会」と銘うって5月15日乗り納めを行うため早朝金沢を出発した。このメンバーは以前から2度も海外旅行をしている仲間である。私には過ぎた仲間である。私個人のために付き合ってくれるという仲間を、これからも生涯の友として大切にしていきたいと思っている。
| 途中、「夢一輪館」で手打ちそばを |
| 思い出の詰まった宇出津駅にて |
| 乗り納めの列車(1両は列車と云わないか)が到着 |
| 機関車を運転したこともあった田ノ浦海岸付近・当日撮影 |
| 同上箇所の建設工事状況 |
その一人が女将さんであった。能登線存続の活動を精力的に行っているという話を伺った。
| エレベーターで九十九湾上の四阿造りの宴会場へ |
| もう鉄道の時代は終わったと身に染みて感じた能登空港で |
能登は便利になったと痛感する。
能登線は消滅した。しかし、私の青春時代に築いた能登線は奥能登の発展に欠くべからずの鉄道であったことは紛れもない事実であろう。
2013年3月24日日曜日
能登線余談その2
これまで能登線建設の模様を紹介した写真は、ニコンSPというカメラで撮影したものである。
写真は名刺サイズで焼き付けられたものが殆どである。これをスキャンしてJPG化した。
原版がせめて手札版くらいならもう少し見栄えのある写真をアップできたのにと残念に思う。
今ではネガからJPGに変換できるのだが、そのネガも見当たらない。
現場撮影したフイルムを持って宇出津の写真屋に現像・焼き増しを頼みに行ったとき、店主が私のカメラを見て「是非譲ってほしい」と乞われた。理由を聞くと、ニコンSPはプロが憧れの機種なのだと。
それまで私は自分のカメラがそんなに値打ちのあるものだとは知らなかった。
高校を卒業して間もないころ、弟がそのカメラを持ってきて兄貴にやるといってもらったのものであった。何でも私が蒐集していた切手ファイルを弟に譲ったのを、友人がそれとカメラを交換してくれとせがまれて手に入れたという。
それはチョコレート色した分厚い皮のケースに収められていた。
写真屋の親父に言わせると、昭和32年発売、レンズ交換できるフォーカルプレンシャッター機能で、レンズがF1.4、ドイツのライカを凌ぐ高性能レンズで98,000円の代物だと。
初任給が1万円の時代であるから、現在価値に換算すると100万円以上か。若いアンちゃんがそんなカメラをぶら下げているのが不思議に思ったに違いない。
そんな話を聞いて譲る気持ちが起きるわけがない。ところが、昭和57年頃、家族で乗鞍岳へ行ったとき写真を撮ろうとした際に巻き上げ部品が突然外れて地面に落ちた。部品を拾ってカメラに取り付けたが、家に帰って巻き上げレバーを調べていたら部品が1個足りないことに気付いた。
カメラ店に部品を取り寄せてもらいたいと依頼したが、30年前製造でもうその部品はないといわれた。やむを得ず4万円くらいのバカチョンカメラを購入した。
最近、ニコンがこの復刻版カメラを販売して即、売り切れだったようである。デジタル時代にはもうそんな価値がないと思うのだが。
写真は名刺サイズで焼き付けられたものが殆どである。これをスキャンしてJPG化した。
原版がせめて手札版くらいならもう少し見栄えのある写真をアップできたのにと残念に思う。
今ではネガからJPGに変換できるのだが、そのネガも見当たらない。
現場撮影したフイルムを持って宇出津の写真屋に現像・焼き増しを頼みに行ったとき、店主が私のカメラを見て「是非譲ってほしい」と乞われた。理由を聞くと、ニコンSPはプロが憧れの機種なのだと。
それまで私は自分のカメラがそんなに値打ちのあるものだとは知らなかった。
高校を卒業して間もないころ、弟がそのカメラを持ってきて兄貴にやるといってもらったのものであった。何でも私が蒐集していた切手ファイルを弟に譲ったのを、友人がそれとカメラを交換してくれとせがまれて手に入れたという。
それはチョコレート色した分厚い皮のケースに収められていた。
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| ニコンSP |
初任給が1万円の時代であるから、現在価値に換算すると100万円以上か。若いアンちゃんがそんなカメラをぶら下げているのが不思議に思ったに違いない。
そんな話を聞いて譲る気持ちが起きるわけがない。ところが、昭和57年頃、家族で乗鞍岳へ行ったとき写真を撮ろうとした際に巻き上げ部品が突然外れて地面に落ちた。部品を拾ってカメラに取り付けたが、家に帰って巻き上げレバーを調べていたら部品が1個足りないことに気付いた。
カメラ店に部品を取り寄せてもらいたいと依頼したが、30年前製造でもうその部品はないといわれた。やむを得ず4万円くらいのバカチョンカメラを購入した。
最近、ニコンがこの復刻版カメラを販売して即、売り切れだったようである。デジタル時代にはもうそんな価値がないと思うのだが。
2013年3月23日土曜日
能登線余談その1
私の青春時代の重要な証である能登線は、平成17年3月31日限りでその使命を全うし廃線となってしまった。あらゆる地図からそのルートも一切消え去ってしまった。
この無念さを表現する適切な言葉を見つけることは不可能である。
だが、この無念さは私だけではなく、ほかにも大勢の人がいることがわかった。ネットで「能登線」と検索すれば廃線後の情報が容易に知ることができるのである。廃線を惜しむフアンが何と多勢なのかと。
月日の経過とともにすたれ行く能登線全駅を、そうしたフアンが驚くべき行動力を以って隈なく写真撮影したものを見ることができる。
そしてこんな写真もマニアが写してくれていた。
管理 岐工区長 鈴木邦雄 と判読できる。この人は現場事務所に着任した当時の上司、助役であった。S39.4.1鉄道建設公団移行後も珠洲工事区長として全通まで業務を全うされ、定年退職まで公団におられたと聞いたが、小木工事区でお別れした後は一度も再会することがなかった。
能登線建設に携わった職員は、私より1年~5年上の先輩が10人以上を数え、適齢期のその人たちは現地からお嫁さんをもらう人が続出した。
ちなみに私が最年少のハタチ前後で、結婚適齢期に時期早尚であった。
この無念さを表現する適切な言葉を見つけることは不可能である。
だが、この無念さは私だけではなく、ほかにも大勢の人がいることがわかった。ネットで「能登線」と検索すれば廃線後の情報が容易に知ることができるのである。廃線を惜しむフアンが何と多勢なのかと。
月日の経過とともにすたれ行く能登線全駅を、そうしたフアンが驚くべき行動力を以って隈なく写真撮影したものを見ることができる。
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| 次の写真と比較し、変わり果てた小浦駅を見ると涙がにじむ |
| 開業準備を急ぐ50年前の小浦駅新設工事 |
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| 真脇駅あとも無残・・・・ |
| 50年後にそのような姿になろうとは誰も考えもしなかった |
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| 恋路・鵜島間第2宗玄橋りょうの「橋りょう標」が |
能登線建設に携わった職員は、私より1年~5年上の先輩が10人以上を数え、適齢期のその人たちは現地からお嫁さんをもらう人が続出した。
ちなみに私が最年少のハタチ前後で、結婚適齢期に時期早尚であった。
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