2013年5月23日木曜日

青春時代の真ん中(その1)

昭和42年4月初旬、約2年3か月過ごした中津川から3年ぶりに岐阜市に戻った。
職場は3年前と雰囲気ががらりと変わっていた。第三次長期計画により輸送力増強と合理化に向け設備投資額が驚異的に増加したのに伴い、昭和40年、昭和41年に新卒者が大量採用されたためであった。
この新規採用者を収容する独身寮も整備されていた。木造オンボロ寮にすし詰めされた生活が一変して場所も1kmほど西に変わっていた。
大黒寮新築概要
鉄筋コンクリート造5階建、全収容員数224名、1室2名二段ベッド、机、スタンド付、スチーム暖房完備であった。

正面、平面
入寮して間もなく自治会長を選出するため適任者を投票することになった。誰が仕組んだのか分からなかったが、どういう訳か私の投票が7票あって、これが何と最多得票なので自治会長をやれということになってしまった。早速、入寮者のために何かやらなければと考え、図書部を創設して数万円を投じて書籍を購入し貸出することにした。
昭和42年度の岐阜工事局所管工事
一方、岐阜工事局の工事量が中部地方一円に信越地方にまで拡大していた。
北陸本線では富山~直江津間の頸城等の長大トンネル、中央本線中津川~塩尻間、東海道本線静岡、浜松、名古屋駅近鉄線改良受託工事等のほか、信越本線、篠ノ井線、金沢車両基地も着工された。
私の当面の業務は本社提出用の中央本線洗馬・日出塩間の使用開始予報作成を急ぐよう指示された。
土木課で30歳未満が20名を数え、課の青年部責任者を選出することになった。ここでも私ともう一人が得票同数となって決選投票が行われた。自分自身一切望んだわけではなかったが、その責任者に祭り上げられた。
そんなこんなで私の青春時代の真ん中がスタートした。

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