自宅もバッチリ見ることができた。どの方向からも見られる。町内全域が収まっていた。
便利ではあるが、恐ろしい時代になったものだと痛感した。現地に行かなくても住宅地図と照合すれば「家」が特定できるのである。
そこでかつて自分が関わった場所を探訪してみた。
本ブログで広島の出来事を記述中なので、そこから始めた。
真っ先に広島新幹線工事局があった場所を探した。そこは駐車場と化していた。
平成14年に現地に行った時にあった建物がなくなっていた。9年間で大きく変わった。
広島に赴任して入居していたアパートは現存していた。この写真は建物の裏側である。2階左から2番目が入居していた部屋である。半年後、職員アパートが完成して転居した。
その温品(ぬくしな)宿舎の現況である。S45年竣工した建築物だが、とてもよく維持管理が行き届いている。
このアパートに2年間生活した。ここから宮島対岸となる大野町に転居した。借家と現場事務所はストリートビューで見ることはできなくて残念だった。航空写真には現場事務所が現在も何かに利用されているようで存在が確認できた。
しかし、建設現場付近は自ら現場を歩いているかのように見ることができた。ストリートビューの威力に舌を巻いた。
高架橋の先が大野トンネル入り口である。高架橋も自分が設計し工事監理した思い出がぎっしり詰まっている所である。おいおい当時の思い出を記述したいと思っている。
上の写真は反対方向の東京方を望んだ場所。お寺の屋根に注目!
試乗で新幹線運転席から同方向を撮影 お寺の屋根が上の写真にも写っている |
800系の運転席から同一箇所 |
工事最盛期のこれも同方向、やはりお寺の屋根が確認できる |
工事着工前の大野地区 この写真にもお寺の屋根がある |
大竹市玖波地内 |
道路上部の施設はトンネル風圧調整設備の上屋 幕府軍による長州征伐で激戦があった小瀬川 |
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