実際にお寺に足を踏み入れると、想像していた以上に壮大な規模なので驚いた。
本堂に入ると今までに見たこともない大広間、欄間の彫刻、格天井等々に固唾を飲んで見入った。だが、写真撮影は禁止である。ところがネットで探すと数枚あった。
吾々が訪れた時はイスが用意されたいた |
ご本尊を祀る仏壇正面の写真は貴重 |
観光客が工事中の本堂を写した |
1474年 一揆衆が富樫政親と組み加賀へ侵入、蓮台寺城を落とし富樫幸千代を討つ。
1488年 富樫政親が一向一揆に敗れ、加賀が一向一揆が支配する国となる。
これより100年間、加賀は「百姓の持ちたる国」となるのである。
1580年 信長軍侵攻により尾山御坊落城。鳥越・二曲城落城
1581年 瑞泉寺は佐々成政が攻め寄せ炎上消失
その17年後、関ケ原の合戦前になるが、広く寄進を募り再建された。
その17年後、関ケ原の合戦前になるが、広く寄進を募り再建された。
この地図でもわかるように、瑞泉寺は越中の国にあるといえども、実質は加賀の国の影響下にあった。
この地図は現在の瑞泉寺の平面図であるが、佐々成政の侵攻により焼失した瑞泉寺の位置とは異なっている。焼失して12年後に再建され、明治中期にも町内の類焼により焼失したという。
民百姓の寄進で明治時代中期に再建された |
建築構造上、この部分を木鼻と称するが、それに彫刻を施すのは極めて稀だという。
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