中卒が金の卵とちやほやされた時代であった。
日本は岩戸景気、高天原景気と続いてなお高度経済成長の最中にあった。国鉄は輸送需要予測の対応のため輸送力増強を打ち出し、設備投資額が飛躍的に増大した。東海道新幹線は9月1日開業を目指して追い込み急であった。
これらに伴い、建設技術者不足が深刻な状況となっていた。
昭和39年6月初旬、岐阜県東濃地域の多治見工事区に着任した。
多治見工事区位置図 |
海軍兵学校最終卒業生であり、かつ中央鉄道教習所専門部土木卒の優秀な助役が上司となった。
その助役から担当する業務の説明が行われた。
「君には土岐津工事区境界から多治見方1km間の新規発注された路盤工事を担当してもらう。
わからないことは何でも相談しろ」と指示があった。
軌道工事しか経験のない私には分からないことばかりであった。
業務担当位置図 |
複線化工事は左右どちらか一方の工作物を取り壊して実施される。このため土留擁壁に使用されている石積み擁壁の石を極力再利用せよと指示があった。最もてこずったのがこの展開図作成であった。最初は説明を聞いても何が何だかさっぱり理解できなかった。
徹夜作業で設計した石積み土留壁 |
8月に入って新幹線の試運転が開始された。工事局関係者と家族に名古屋・豊橋間の試乗券が配布された。
指定された試乗の日、名古屋駅に向かった。駅施設の目に入るもの全てがこれまでの施設の常識を覆したもので完成しており、子供のように列車の到着が待ち遠しかった。
新幹線がもうすぐやってくる! |
到着、わお、凄いなぁ! |
時速200km、快適! |
10月10日、多治見も快晴の日、東京オリンピックのファンファーレが鳴り響き、数々のドラマが展開した。1000円記念硬貨を行列して手に入れたが、どこにしまったか思い出せない。
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