大野高架橋起工式 |
私の担当は3工区で着工時から完成まで数えきれなほどのトラブルに見舞われた。地質調査では無いことになっていた転石のため、高架橋の構造変更、既成杭から場所打ち杭の変更、杭基礎構造を一部直接基礎に変更を余儀なくされた。
担当は高架橋だけではなく、大野トンネルがメインなのだ。
大野トンネルは着工時に保安林関係でトラブルがあったが、それ以降、導坑掘削が日進20m以上を記録するほど急ピッチで進んだが、前年の年末に断層破砕帯にぶち当たり、導坑が300mほど埋没した。このため1か月ほど中断、請負業者、当局幹部等工事担当者間で善後策を協議し、破砕帯の手前300mから迂回坑を新たに設け破砕帯を直角に横断させ本坑に到達させて導坑掘削を進めることに決定した。
破砕帯部分の支保工補強 |
迂回坑のアプローチ部 |
ある日、役場から「上水道用貯水ダムが渇水で空っぽになっている、この原因はトンネル異常出水と考えられるので至急善処せよ!」と高飛車的な大野町の主張。それこそ寝耳に水の話が持ちあがった。
トンネルの排水量は常に観測しているが、何か月も同様の排水量であった。不思議な気になり、念のため隣接工事区の担当者にトンネル出水量に異常がないか問いただした。担当者曰く、「数日前、毎分6tの異常出水があった。これは現在も続いている」と報告があった。
トンネルの工区境はサミットと称され最も標高が高く設定されている。東工区と西工区の境界の位置が大野町にあった。このため、西工区の渇水対応は大野工事区、即ち我々が行わなければならないのである。
早速、貯水池の調査に行った。そこは見事に空っぽであった。しばらくすると、「池の鯉200匹が死んだ」、「沢の水が枯渇して田植えができない」、「井戸の水がなくなり風呂に入れない」と苦情の波が押し寄せてきた。
応急措置として、業者にポリタンクを用意させて事務所の水道水で満タンにして軽トラに積み込み配達して回った。
この年昭和48年は広島地方が渇水に見舞われた。良くないことが重なる場合が多い。渇水補償は用地課が対応することになった。
この年の秋、悪戦苦闘した導坑が貫通見込みとなって、貫通式が行われた。
貫通の最後の発破ボタンを押す局長 |
西工区と酒樽交換の儀 |
貫通点で担当助役と主任、技術掛 この3人が頑張った! |
貫通祝賀会 |
祝賀会の模様 |
昭和48年はオイルショックがあった。これは工事にも多大な影響を及ぼした。労務賃金、建設資材がどんどん上昇していった。
請負業者に工事代金が2か月毎に支払われる。いわゆる出来形払いである。トンネルの場合は毎回1億円を上回る。ところが、資材や労務費が高騰するため請負代金の変更業務が必要となる。請負契約書にスライド条項がある。適正な請負価格に変更する業務が必須となって、業務の繁忙におまけがついた。
毎日終業が午前2時。当然土日の休みなし。こんな生活が3年間も続いたのである。